結び目
けれど。
彼と交わしたその約束は、結局果たされることがなかった。
約束をした場所に、少年が現れなかったのである。
その日は朝からそわそわと落ち着かず。授業が終わるや否や、燈治は大急ぎで靴箱へと向かい、今か今かと少年を待ち続けた。
靴箱に凭れて少年を待つ燈治の眼前を、たくさんの上級生たちや下級生たちが流れ、横切っていく。ぞろぞろと帰路へ着く生徒たちを幾人も見送りながら、燈治はそれでもとにかく、辛抱強く彼を待った。
しかし十分経ち、二十分が経過しても、そして大半の生徒たちが帰ってしまい校舎の中が閑散とし始めても、燈治の求めるあの少年が燈治の許へと急いで駆けてくることはなかった。
しかし、燈治は約束を違えられたのだとは思わなかった。欠片も。その可能性は燈治の中には存在しなかった。彼とはほんの少し言葉を交わしただけだったけれど、彼は決してそうした男ではないのだと燈治は真直ぐに信じていたのである。
何かあったのかも知れない。彼は何処に居るのだろう。
燈治はようやくそう思い始め。入れ違いになってしまうかも知れないことだけがやや不安ではあったのだが、意を決して約束をしたその場所を離れて、自分から彼を探しに行こうと決意した。
まず一番始めに向かったのは、あの廊下である。燈治が彼と初めて顔を合わせた、一階の廊下。
しかし行ってみたものの、廊下にも彼の姿は見当たらなかった。
黒い影のように漂う記憶の残像を振り切り、燈治はさっさと踵を返して次へ急いだ。早く。早くしなければ。彼と野球をする為の、せっかくの時間が減ってしまう。
そうして半ば走るような速度で、今度は昨日知り得たばかりの図書室へ向かってみた。
彼は本当に本を愛しているようだったから、もしかしたら昨日言っていたような用事が出来たのかも知れない、と。それを伝えに来れずに止むに止まれず遅れているのだと。そうに違いないのだと。腹の底で徐々に徐々に重くなっていく濁った淀みから必死に眼を逸らし、燈治はひとけのない廊下をひとり駆けた。
しかし。その図書室にも、彼は、居なかったのである。
全ての通路を覗いてみても、全ての座席を探してみても。何処にも、少年の姿はなかった。
昨日よりもひとの少ない図書室にて燈治は行き先を見失ってしまい、途端、緩い眩暈のような絶望に包まれた。
燈治は、彼のことを知らない。知っていることといえば精々、本が好きだ、ということくらいである。親しくなれそうな予感は確かにあった、けれど。燈治と少年は未だ強く結び付けられていたわけではなかったのだ。その事実が、ふんわりと膨らんでいた燈治の期待を無表情に破り去った。僅かに浮かんでいた燈治の爪先は、破られた瞬間、冷たい地面へと触れていく。
燈治は彼のことを何も知らない。図書室の他に彼が行きそうな処など、判る筈もないのだ。
「…………かず、」
呼んでも応えるもののないその名を燈治は口にして。とにかく図書室を後にした。
彼の居ない図書室にいつまでも居続けるのは、何だかひどくつらかったので。
そうして図書室を出て、これからどうするべきなのか何処へ行くべきなのかも判らないまま、燈治が宛てもなくただ校内を彷徨っていると。ふと、ひとりの女性教諭の姿が眼に映った。
あれは確か、昨日廊下で彼に声を掛けていた教諭である。
彼女が少年の担任教諭なのかどうかは判らない、けれど彼女ならばあの少年のことを知っている筈だ。他には何の手掛かりも持っていない燈治は、藁にも縋る思いで教諭の許へ走り寄った。
そこで彼女から得た話は、燈治にとっては到底理解出来ぬものであった。
あの少年は、昨晩突然、『もらわれていく先が決まった』というのである。だから、急に越して行ったのだと。
彼には身寄りがなかったから云々、とやや気の毒げな表情で彼女はそう話してくれたのだが、その半ば以上は燈治の耳には入らなかった。
もらわれていく、というのはそもそも一体どういうことなのか。意味が判らなかった。燈治の世界にはそうしたことは存在しないのだ。
ただ、ひとつだけ理解出来たのは、彼はもう此処には居ないのだということ。その理解はひんやりと浸透し、どうしようもない冷たさで燈治のこころを静かに刺し貫いた。
いくら燈治が探し廻ってみても。いくら待っても。彼はもう居ないのである。燈治の眼前に現れることはないのだ。
燈治の脳裏に少年の黒い眼と仄かな笑みが蘇る。
きっともっと親しくなれると、そう感じた予感は一体何だったのだろう。やったこともないと言った彼に野球の楽しさを伝えたかったのに。彼が燈治の為にと選んだ本がどんなものなのか、読んでみたかったのに。いつか彼自身のことを彼の口から聞きたかったのに。
それらが、もう何ひとつ、叶わないなんて。
理解はしたもののどうしても信じ切れなかった燈治は、次の日も彼の居た図書室を覗いてみた。
彼が佇んでいたあの廊下をもう一度歩いてみた。しかし、やはり、彼の姿は何処にも見当たらなかった。
彼は、煙のようにふわりと、本当に消えてしまったのだ。
むしろ、会って話をしたことの方が夢だったのではないかと思ってしまうほどきれいに。
両の腕にたくさん抱えてしまった分だけ、燈治を襲った消失感はひどく大きかった。
腹を立てるにしても怒鳴りつけるにしても泣きつくにしても、それを何処にぶつけるべきなのかということさえ判らないのである。まるで、何ひとつ見えぬ茫漠な地にたったひとりで立ち尽くしているような心地。それは、とても虚しいものだった。
あの少年はやはり幽霊だったのかも知れないと、燈治は半ば己に言い聞かせるようにしてそう考え。掌の中に唯一残された彼との約束を、そっと握り潰した。
潰れた約束は砂粒のように粉々に砕け散り、そしてやがて彼の記憶と共に燈治の胸の内でも次第に風化してしまった。
ゆるりと互いに伸び掛けた糸は、絡む前に離れたのだ。
それが壇燈治という子供のこころに初めて落ちた、苦く寂しい染みである。