こうやって過ぎていく街から
気を取り直したように優人が笑って、手を振りながらホテルへと向かった。帝人はしばらくその背中を見つめて、息を吐く。コートの中は蒸し暑く、肌にまとわりつく汗が不快だった。
帰路へ着くため振り返った帝人は、ぎょっとして、数歩後ずさった。
「まさおみ……?」
太陽に金髪を反射させながら、紀田正臣が立っていた。
帝人は、再び体を反して逃走を試みる。逃げるべきではない、逃げてもどうにもならないことはわかっていた。だが、いま正臣と相対して、なんと言い訳すればいいかもわからない。
「待て帝人!」
情報屋になって、いくら体を鍛えたといっても限界はある。至近距離にいた相手から逃れようとするのは非常に難しいことだ。
正臣は、帝人の腕をにじりあげるように掴んだ。痛みに顔をしかめるが、手加減されていることはわかる。
「……つけてたの?」
偶然出会うような場所ではないのだ、ここは。正臣が拠点としている場所からは遠い。
「俺につけられてることにも気づかないんじゃ、いつか殺されるぞ」
「正臣だから気付かなかったんだよ」
「言い訳だな。お前、なにしてんだ?なあ、なにしてんだよ」
「…………企業秘密」
「笑わせんな!お前が何したいのかわからないんだよ!お前の気が済むなら好きにさせようと思ってた。昨日まではな!だけど、こんなことしてんなら話は別だ!」
「やめてよ、こんな往来で」
「じゃあ場所変えるか?俺は別にいいぜ?いいか帝人、今日は折れてやらないからな。お前がなんと言ってもだ!」
ぎりぎりと、掴まれた腕から正臣の怒気が伝わってくる。
「言うことなんて、何もない」
「ふざけんな。あいつ、あいつは……、」
「違うんだ正臣……違うんだよ、あの人は」
「何が違うんだ」
「全部終わったら話すよ。正臣が怒ることも泣くこともしない。だから待って、もう少しだけ待って、お願いだから」
縋る様に言う帝人に、正臣は顔を歪めた。怒っているようでも、戸惑っているようでもある。それでも帝人の手を掴む力を緩めないのは、離せば彼女が逃げ出すことを確信しているからだろう。
「竜ヶ峰さん」
正臣を見ていた帝人も、帝人を見ていた正臣も、気づかなかった。ふたりがそちらを見たのは、ほぼ同時だ。
宮城優人が立っていた。表情を暗く落とした顔で、ちらりと正臣を見る。
「何か、問題でも?」
「あ……いえ……」
「てめぇ……っ!」
帝人ははっとして、腕を払った。
「何も言わないで正臣っ!」
「帝人!」
「うわ?」
優人の手を掴み、人込みを掻き分けるようにして走る。背中で正臣の怒鳴り声がしたが、本気で追いかける気はないのか、それともこの人込みでは正臣にも人を追いかけることは難しいのか、声が遠い。
「大丈夫ですか竜ヶ峰さん?」
「とりあえず今は走ってください!」
「でもホテル反対、」
「足がつくとまずいんです!時間がないのはわかってますが、遠回りします!」
止まっていたタクシーに乗り込む。
「適当に流してください!」
突然乗り込んできた客の剣幕に、タクシーの運転手は目を白黒させて「はぁ……」と気の抜けた返事をした。
帝人は後部座席から背後、周囲を見渡す。相手は正臣だ。これがセルティや静雄であったなら気は抜けないが、正臣が頼るとすれば人海戦術のみだろう。注意さえしていればまける。
炎天下、全力で走ったせいで、全身を汗が伝っている。
「さっきの、竜ヶ峰さんの恋人ですか?参ったなあ、浮気していると勘違いされたんじゃないですかね?」
「友人ですよ、ただの」
冗談めかした優人の声に頭を振って、帝人は携帯を操作する。情報を適当に操作し終えて息を吐くと、「ここで止めてください」とタクシーを止める。料金を払って、また違うタクシーに乗り換えた。
「逃亡劇みたいですね」
「楽しいものじゃありません」
「ところで、さっきのお友達、少し様子がおかしくありませんでしたか?」
「僕の仕事を、よくないと思っている友人でして」
「そういう感じじゃなかったけどなあ。まるで、僕のことを知っているような顔をしていましたよ」
優人はきっちりとした笑みを浮かべたまま、帝人を見る。
「あなたと彼は、面識はないはずです」
「どうして、言い切れるんです?あなたが知らないだけで、彼は僕を知っているかもしれませんよ」
「情報屋であり、彼の友人でもありますから」
「そういうことにしておいてあげましょう、今は」
タクシーを止める。
「追われてはいないようです。このままホテルに向かってください。タクシー代、領収を切っておいていただけますか?」
「わかりました」
「面倒なことに巻き込んでしまってすいませんでした」
「楽しかったですよ、非日常。僕は常に、非日常にいるようなものですけどね」
「そう言ってくださるとありがたいです。では、今度こそ」
「ええ、さようなら、竜ヶ峰さん」
「さようなら、優人さん」
過ぎ去るタクシーを見送って、帝人は周囲に目を走らせた。こんな時、悪目立ちするコートは邪魔だ。だからといって脱ぐつもりはさらさらないが。
フードを被って、帝人は人込みに混ざる。
どうしたって混ざり合うことのできない、集団の中に。
作品名:こうやって過ぎていく街から 作家名:すがたみ