こうやって過ぎていく街から
PDAを操作しているセルティをうっとりと見つめながら、新羅は首を傾げた。
「仕事かい?」
もう夜中といって差し支えない時間だったが、珍しいことでもない。やっかいな仕事はいつだって夜中にやってくる。
【ああ、帝人からだ】
「この間なにか預かってたよね」
【持ってきてほしいらしい。ちょっと行ってくる】
「気を付けてねセルティ。愛してるよ」
【う、うるさい……!】
「照れてるセルティもすごく可愛いよ!ああ僕のセルティ!」
【もう行くからな!】
「いってらっしゃいセルティーーーーーーー!」
【近所迷惑だ!!】
なんだかんだで嬉しそうなセルティは、己の影で作った黒い鞄を掴んでそそくさと出かけていく。これ以上留まると新羅がまた騒ぎ始めると知っていたからだ。仕事に行く前はだいたいこんな感じなのだ。
***
部屋の中に、音はなかった。
無音だ。
それがなおさら焦燥を煽ると知っていながら、テレビをつけたり音楽を聴いたりする気分でもない。
春香は綺麗にネイルされた爪をがりがりといじる。左手の親指の爪はネイルもデコレーションもとれており、他の爪が完璧なまでに美しかったのでそれは余計悲惨に見えた。
時計は、深夜を指し示している。
だというのに優人はいない。昼間、あんなことを言わなければ、といくら後悔しても遅かった。
記憶がないから、行く場所もないから、恩があるから、優人はどこにも行かないと。そうやって、【記憶が戻ったら優人はどこかに消えてしまうのではないか】という恐怖を打ち消していた。
これは、春香が一番恐れていた状況だ。
もしかしたら、優人は記憶が戻ってしまったのではないか。春香のことを忘れてどこかに行ってしまったのではないか。そうでない確証がどこにあるというのだ。
優人、優人、優人。
ああ、あなたがいたら何もいらないのに。
携帯が、鳴った。
優人からではないか、という期待は即座に消え去る。
見覚えのない電話番号だ。だが、電話の主が誰であるのかなど考えるまでもないことだった。
「もしもし!?優人をどこにやったのよ!」
【会えませんか?ふたりで】
「質問に答えてよ!」
【ああそれとも、こんな時間に呼び出すなんて非常識でしたか?なんなら、朝になってからでもかまいませんが】
「〜〜〜〜〜っ、どこに行けばいいの!」
【インウィディアというバーをご存知ですか?池袋にあるんですが。そこでお待ちしています。場所がわからなければタクシーでも使ってください。その方が安全だと思いますし】
春香は怒りのまま携帯を切って部屋を飛び出した。ホテルの前に止まっているタクシーに行き先を告げると妙な顔をされたが、そんなことに構っていられない。
インウィディア、というバーは酷く小さかった。店のネオンは切れているし、看板も擦り切れている。どう好意的に見ても、営業しているようには思えなかった。
春香はごくりと生唾を嚥下して、ドアを押す。
薄暗い。テーブルの上には椅子が逆さに置かれている。やはり営業はしていないのだろう。
カウンターの向こうには情報屋――竜ヶ峰帝人が微笑んで立っていた。
「こんばんは春香さん。こんな時間に呼び出してしまってすいません。どうしても二人きりで話したかったものですから――ああ、あなたが僕につけた誰か達のせいで、二人きりにはなれないんでしたね」
「優人はどこよ……」
「帰しましたよ、家に」
「帰ってないわ!」
「彼の家に、ですよ」
帝人は背後の棚を振り返る。グラスと、リキュールが並んでいた。
「何か飲みますか?カクテルを作るのはあまり得意ではないんですが」
「そんなことより、優人に会わせて!」
「宮城、春香さん」
こつん、と足音をさせて帝人がカウンターから出てくる。春香は、後ろに下がりそうになる足を止めた。動けなかった、といってもいい。青みを帯びた深い色の瞳が、春香の足を地に縫い付けるようだ。
「宮城孝三さんの一人娘。母親は春香さんが3歳の頃に他界。もしもご存命なら、あなたがここまで我儘に育つこともなかったかもしれませんね。幼稚園から大学までエスカレーター式。大学では心理学を専攻。優人さんの助けになりたかったんですか?安っぽいですね。本当に彼を助けたいなら、あなたは医者を志すべきだった」
「私のことを調べたの!?」
春香のヒステリックな悲鳴にも動じず、帝人は続ける。
「私と会ったとき――正確には、私の名前を聞いた時、さぞや怖かったでしょう?だってあなたは、私の名前を知っていたのだから」
「なんのこと……」
「それどころか、あなたは優人さんの本当の名前も知っていたはずです。なんでしたっけ?優れた人、優しい人、というのが優人さんの名前の由来でしたか。確かに彼は優れた人ではありますけどね、優しいかというと首を傾げざるを得ない」
こつん、とまた一歩、帝人は春香に歩み寄る。
「彼の名前は臨也。折原臨也。まあ、わざわざ教えることでもないでしょうけど」
「知らないわ!あの人は優人よ!」
「違う」
こつん、と帝人は春香を通り越した。
とたん、店の外で唸るような轟音がはじける。
「なに!?」
その音は瞬く間に消え去り、次にはドアが、ぎぃと軋んで開いた。
影だ。
春香は瞬時にそう判断した。黒、などというものではない。道路にへばりついた影が、そのまま起き上った、そんな感じだ。まとうライダースーツは光沢も無く、外で輝くネオンを受けても、体の凹凸すらわからなかった。個性的な形のヘルメットだけが、唯一その影を人たらしめるようだ。
影が、ぽん、と何かを投げた。黒い鞄だ。帝人はそれを受け取ると中身を確認し、床に中身をぶちまける。
「なんで……!?」
春香が絶叫した。
それはただの携帯だった。3台ある。そして黒い財布と、もうなんであるのか判別できないほどの布きれ。ここにあるはずのないものだ。誰にも見つからないように、春香が四年間隠し持っていたのだから。
帝人がちらりと影を見たが、影は腕を組んで壁にもたれかかり、帰る気はなさそうだ。
「なんで……なんでこれが……」
「持っているのは怖かったでしょう?ああそれとも、捨てるのも怖かったのかな。さっさと処分すればよかったんです。私ならそうしますけどね。記憶喪失者の記憶を取り戻してしまいそうなアイテム、気づいた瞬間木端微塵にします」
「うちに行ったの!?こんなの不法侵入じゃない!それに……それに……」
「泥棒?」
帝人が小首を傾げて笑った。
笑った、のだと思う。もしかしたら唇をゆがめただけなのかもしれないが、春香にはよくわからない。ほの暗い灯りは、帝人の顔に恐ろしげな陰影をつけている。
床に落とした携帯をひとつ取り上げる。もちろん、四年間充電されなかった携帯は光を灯さない。
「彼は携帯を何台も所有していました。プライベート用、仕事用をいくつか。これは私専用の携帯です。私の名前しかなかったでしょう?」
「知らないわよ!」
「そんなはずありません。あなたって、恋人の携帯を見ちゃうタイプじゃないですか?」
「知らない、私は何も知らないわ!」
喚く春香に、帝人は「ま、それならそれでいいんですけど」肩を竦めた。
作品名:こうやって過ぎていく街から 作家名:すがたみ