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こうやって過ぎていく街から

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「これは臨也さんのものですから返してもらいますね」
「臨也なんて知らない……あの人は優人よ……優人……私が助けたの……私が、」
「ぶっちゃけどうでもいいです。あなたが助けたとかどうこうとか、過去のことは。でもね春香さん」
 拳を震わせ、呆然と立つ春香に、帝人は歩み寄ってその耳元に唇を寄せた。
「これから僕の邪魔をするようなら許さない。絶対に」
 耳の奥から、ただの言葉が文字のような立体をもって入り込む。ごそごそと、虫が飛び込んできたのではないかという不快感と一緒に。
 ぐらぐらと足元がおぼつかない。床が粘土か何かに変わってしまったのではないか。ヒールがずぶずぶと沈んでいくようだ。
「好きなのよ……彼が……」
 自分の声が遠くに聞こえた。耳の奥で帝人の言葉が邪魔しているのだろうか。
「離れたくない……」
「可哀そうですね春香さん。でも私も譲れない。四年です。四年、生死のわからない彼を探し続けたんです。もういいでしょう?四年間、楽しかったでしょう?そろそろ返してくださいよ、彼を」
「優人はものじゃないわ!」
「あなたに言われるとはね。彼は綺麗なアクセサリだったでしょ?あなたは美人だし、お金持ちだ。新しいアクセサリはすぐに見つかりますよ。心配することはない」
「違う!」

 違う、違う、違う。

 春香は優人を愛している。彼が手に入るなら、家も、家族も、なにもかも全て捨ててしまったっていいのだ。情報屋の言葉に踊らされてはいけない。
「違っても、合っていても、どっちでもいいんです。私は引かない。彼があなたを選ぶとも思えないし」
「馬鹿にしないで!優人は私を選んでくれるわ!四年も一緒にいたの、一緒に過ごしたの。捨てられるのはあなたの方だわ」
「そう思います?本当に?」
「そうよ」
 ぎりぎりと唇を噛み、帝人を睨みつける。だというのに、帝人は春香を睨みもしないのだ。ただ、静かな顔をして、ほの暗い瞳の底に炎だけを灯して、じっと春香を見つめるだけだ。
「なら、どうしてあなたはそんなに怯えているんですか?本当は、わかっているくせに」
 帝人は、携帯と布を拾って、鞄に詰め込む。
 立ち去ろうとしているのだ、と春香は気づいた。
 このまま帝人を行かせれば、彼女が優人に全てを話すことなど目に見えてわかっている。春香はがたがたと震える手でポケットに手を入れた。
「あなたの幸せを祈りますよ春香さん。少しぐらいは真面目にね」
 帝人が、春香に背を見せる。
 春香はポケットからナイフを引っ張り出した。小さな果物ナイフだが、それでも殺傷能力はある。
 入り口付近の影がざわめき、それを帝人が手の平で制したことに春香は気付けなかっただろう。彼女はただ、帝人めがけて走る。
 

 嫌な、手ごたえだった。
 肉の塊にナイフを突き立てたら、きっとこんな感覚なのだろう。
 

 春香は、全身が震えているのを感じていた。それが歓喜なのか、恐怖なのか、後悔なのかは、わからない。きっとどれもがない交ぜになっている。
 手が震えてナイフを持っていられない。強ばる手をナイフの柄から離しても、ナイフは床に落ちなかった。
 ナイフは、帝人の腕に刺さったままだったからだ。
「驚きました」
 帝人は呻きもしなかったし、畏怖を表情に滲ませてもいなかった。痛みを司る感覚などない、とでもいうように、ひたすら平然として、ひゅうひゅうと荒い呼吸を繰り返し震える春香を見返す。
「あなたは、こんな時でも保身に走るんですね」
 ぐ、とナイフの柄に手をやり、引き抜く瞬間だけ帝人は顔を顰めたが、いとも簡単にナイフを抜き去ると床に放り投げる。カラン、と乾いた音がした。だらりと下げた帝人の腕から、指の先を伝って黒い何かが、ぽたりぽたりと地面に落ちた。それは、明るい日の下で見たらどす黒い赤をしていただろう。
「ひっ、がっ!」
 帝人は素早く春香の胸ぐらを掴むと足払いを掛け、背中から倒れこんだ春香に馬乗りになり、細い首に手を掛けた。ぬるりとした感触は、彼女の血だろう。帝人はわざわざ、怪我をした方の手で、ゆるりと春香の首を撫でた。
「知ってます?腕を刺されたぐらいじゃ人は死にません。あなたが本当に優人さんを愛していて、僕に優人さんを取られるのが我慢ならないというなら、僕の胸を刺すべきだった。あるいは首を。ここに、ね」
 春香の鳩尾をぐいぐいと膝で圧迫しながら、指先で首のポイントを押さえる。
「うっ、ぐあっ!?」
「頸動脈、というものがあります。無知なあなたでも知ってるかな?ここを押さえられると人は息ができません。そんなに力は必要ないんですよ。ただ少し強めに押さえてやるだけでいい。苦しいですか?」
 バタバタと春香が足をばたつかせ、帝人の手を引きはがそうと長い爪で引っ掻くが、帝人は手を緩めなかったし、春香の上からもどかなかった。
「言ったでしょう春香さん?この世には、あなたの思いもよらない怖いものがあるんだって。そして、僕の邪魔をするならただではおかないって。あ、もしかして血を見たの初めてだったりします?良かったですね、死ぬ前に貴重な体験ができて。僕、いい加減あなたに付き合うのも疲れたんです。世間知らずなお嬢さん。彼、よくもあなたに四年間も付き合っていられましたよね。称賛に値しますよ」
 もがく春香を見下ろして、帝人は笑った。
「僕のこと、怖いですか?でもね、あなたの知らない優人さんは僕よりもずっと怖いですよ。記憶を取り戻したら、真綿で首を絞めるようにゆっくりゆっくり殺されちゃうかもしれません。それって結構、可哀そうですよね。僕、一応あなたには感謝してるんです。あなたが助けてくれなかったら彼、死んでたかもしれないのは事実ですし。だから僕が手早くあなたを殺してあげますね」
 帝人がぐっと指に力を込める。春香が目を見開いて、顎が外れてしまいそうなほど大きく口を開いた。
「なーんてね。殺しませんよ。僕、直接人を殺すのって嫌いなんですよね」
 帝人はけらけら笑ってひらりと春香の上からどいた。突然肺に入り込んだ空気に、春香は咽て咳を繰り返す。
 生理的な涙で滲む目で懸命に帝人を見上げれば、ライダースーツの影が帝人に走り寄るところだった。
「ただひとつ覚えていてほしいのは、直接殺すのは嫌いでも、間接的にならいくらでもあなたを殺せるってことです」
 影が帝人の手をとりながら、無機質なヘルメットの顔を春香に向ける。そして影は、ヘルメットを取った。
「あああああああああああああ!?」
 喉を圧迫され続けたせいで掠れた声で春香は悲鳴を上げる。
 ライダースーツの首から上には何もなかった。
 本来あるべき頭がなかった。
「あっはははははは。失礼な人ですね春香さん。それじゃあさようなら。もう二度と私の前に顔を見せないでくださいね。もちろん、彼の前にも」
 狂ったように叫ぶ春香を置き去りにして、帝人と影はインウィディア――嫉妬、という名のバーから立ち去った。
 悲鳴だけが、池袋の夜にこだましていた。

***

 セルティはPDAを使わなかった。
 そんな余裕すらなかったのだろう。
 帝人の腕を布で縛り付け、バイクにサイドカーを作り出すと、慎重な手つきで帝人をそこに乗せる。