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こうやって過ぎていく街から

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 玄関の外で、四十手前ほどの白いスーツを男が立っている。眼光がするどく、男の存在を知覚しただけで温度が下がり、空気がずんと重くなったような気がする。明らかに堅気とは違う男だった。
「殺して早く!」
「なんのことでしょう?」
「え……?」
 春香が呆けたように呟いた。臨也は油断なく男の様子を窺う。
「私はあなたの雇った殺し屋ではありません。殺し屋を雇うならね、お嬢さん。きちんと素性を調べた方がいいですよ。そうでなければ金だけ取られるのが落ちです」
「あなた……誰……?」
 春香が恐る恐る尋ねる。
 問いには答えず、男はいまだ眼光鋭い臨也に視線を向ける。
「お久しぶりですね折原さん。ご健勝そうで何よりです」
「……お久しぶりです……」
 知り合いなのかどうなのかわからなかったが、とりあえずそう返す。臨也の心のうちなど見透かしたように男は皮肉に笑った。
「さっさと帰りなさい。時間に遅れますよ」
「あなたは……誰です」
「ああ、本当に記憶がないんですね。以前のあなたにはずいぶん世話になりました。とはいえビジネスですし、こちらも相応のお返しをしていますので、別にあなたを助けようというわけじゃないんですけどね」
 男がスーツの胸ポケットを叩いて唇を笑みの形に歪めた。
「私があげたものに対してあまりにも多いお返しをいただいてしまったので、その分だけは借りを返しておこうかと思ったんです。意味はわからなくていいですよ」
 男はかつんと足音を響かせて、玄関から一歩、中へ入った。扉への道を開くように体を避け、臨也を見る。
「帰りなさい。彼女が待っています。もしかしたら泣いているかもしれませんね」
「……っ。ええ、そうします」
 臨也は体を緊張させたまま、男の隣を通り過ぎる。もしかしたらその瞬間に男が襲い掛かってくるのではないか、とも思ったが、通り過ぎた瞬間に男は臨也の存在などもうわすれたとばかりに、視線を春香に戻す。
 それからは、どうなったのか彼にはわからない。
 門扉の外にでて玄関を振り返ったが、きっちりと閉じられたその中で何が行われているのかも、知ることはできなかった。

***

 春香の悲鳴を聞きつけたのだろう、孝三が奥からやってきて、へたり込んでいる娘と、見知らぬ男を見て顔を引き攣らせる。
「……どちらさまでしょうか?」
「粟楠会の四木と申します」
「あわ……くすかい……」
 孝三は冷や汗を流した。粟楠会は東京で幅を利かせているヤクザだ。
「そのような方が、うちに何の用でいらっしゃったんですか?」
「折原臨也さん、戸籍上は宮城優人さんですが、あまり彼と関わり合いになられると困るんです。意味はもうお分かりですね?」
「言われるまでもなく、あんな男と関わるのは二度とごめんです」
 顔を顰めて吐き捨てる孝三に、四木はふと笑って腰が砕けたままの春香を見下ろす。春香はひっと息を飲んだ。
「あなたはそうでもお嬢さんはね。お嬢さん、あの男はあなたに御しきれるものではないですよ。あの男が何人殺し、何人自殺に追い込んだかご存知ですか?」
「人……殺し……?」
「あんな大怪我を負わされる男ですよ。まさか考えなかったわけではないでしょう?」
 そして再び孝三を見る。
「ご理解いただけたと思ってよろしいでしょうか?」
「……ええ。娘にも言って聞かせます」
「そうしてください。折原臨也及びその周辺を騒がせるようならこちらもそれ相応の対応を取らせていただきます」
「わかったと言っているでしょう!」
 思わず怒鳴った孝三が口ごもるが、四木は特別気にした様子はない。彼にとって所詮宮城親子は怒る価値すらないイキモノなのだ。
「くれぐれもお願いしますよ。私は」
 四木の顔を真正面から見ていた孝三ははっと息を飲んだ。
 光の加減だったのか、四木の目が一瞬ぼぅと赤く光ったような気がしたのだ。
「私たちは、あなた方をずっと見張っていますからね」

***

 孝三は一言「もう忘れなさい」とだけ春香に言った。
 春香はぼたぼた涙を流したまま、閉じられた玄関扉を見つける。
 彼は優人でも、折原臨也でもない。
 春香にはもう何もわからなかった。
 わかっていたことなど、そもそも最初から何もなかったのだと。
 ただ春香は黙って涙を流し続けた。