こうやって過ぎていく街から
玄関の扉に鍵を差し込む前に、チャイムを押した。
すぐさま扉が開く。
臨也の顔を見た帝人はほっと息をつく。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
帝人の顔を見た瞬間、臨也は泣きそうになる。きちんと笑えているはずだと、思っていたのは自分だけだったのか、それとも帝人は人の心の機微に敏感なのか、不安そうな顔をして臨也の頬に手を当てる。
「なにかありましたか……?」
「なにも」
玄関扉を閉めて臨也は帝人を抱きしめた。
「なにもない。いつも通りさ」
「そう、ですか」
そんなはずはない、と帝人は臨也を責めなかった。彼女は臨也を責めない。たとえこの先ずっと記憶を取り戻せなくても、彼女はやはり責めないのだろう。ただこうやって受け入れてくれるのだろう。
それはとても嬉しくてありがたいことだったが、ちくりちくりと胸が痛んだ。
理由はよくわからない。
そのまま無言で抱きしめていても帝人はなにも文句を言わず、抱きしめ返してきた。
「玄関でいちゃいちゃしてんのはどこのどいつだあああああああああああああああ!」
突然玄関扉が開き、臨也も帝人もびくんと身体を震わせた。
紀田正臣がその顔にありありと怒りを浮かべて立っていた。
「やあ紀田君久しぶり。ところで君、玄関開けてないのになんで俺達がいちゃいちゃしてたのわかったの?」
「透視だ!」
「怖いよ正臣」
臨也から体を離して、正臣の後ろに立っていた女に帝人が声を掛ける。
「久しぶり沙樹さん。今日はきてくれてありがとう」
「久しぶり。私こそ呼んでくれてありがとう」
ああ、これが三ケ島沙樹なのだと、臨也は瞼を伏せた。
過去、沙樹に何をしたのか、臨也は覚えていない。帝人はただ、とても可哀そうなことをした、とだけ言った。そして彼女に会っても絶対に謝るな、と。正臣も沙樹も、もう自力で乗り越えているのだからと。
「久しぶり、と言えないのが寂しいな。どうぞ入って」
「臨也さん、本当に記憶喪失なんだね」
沙樹はふわふわ笑う。正臣だけが臨也を睨みつけていた。
リビングにはテーブルが二つくっつけられており、その上にはガスコンロと土鍋が四つ、皿やグラスが人数分並んでいた。
「これ土産」
正臣がスーパーの袋を帝人に渡した。中には菓子やツマミがこれでもかとばかりに入っている。
「ありがとう。正臣たちが一番のりなんだよ。何か飲む?」
「俺とりあえずお茶。沙樹は?」
「私もお茶。帝人さん、なにか手伝おうか?」
「ありがとう。でももう下準備は終わらせたから。お客様は座ってて」
「そうだそうだ、臨也さんを働かせとけばいいんだ、臨也さんを」
臨也は沙樹と正臣の前に座る。
「君と話してるとよくわかるなあ」
「なにがだよ」
「俺と君の力関係さ。君は俺に乱暴な口を利くけど、俺のことを臨也さんと呼ぶんだね」
にやりと笑うと、正臣は嫌そうに顔を顰めた。
「あんたさ、帝人の前では猫被ってるよな」
「丁寧に接してくれた人にはきちんと対応してるだけだよ」
「正臣と話している臨也さんを見ると、記憶喪失だって忘れちゃうな。ちっとも変ってないんだもん」
「そうかな?」
「記憶喪失嘘だったらまじ殺すぞ」
「まじだって。こんな嘘つかないよ」
「それが、ついちゃいそうなんだよね臨也さんて人は」
くすくす笑う沙樹と憮然とした正臣のグラスに帝人がお茶を注いでいると、チャイムがなった。
ふたりで連れたって玄関に向かう。
「こんばんはー!」
元気な声を上げたのが舞流。
「…………」
無言でぺこりと頭を下げたのが九瑠璃。
「こんばんは帝人先輩!」
きらきらとした顔で挨拶もそこそこ帝人の手を握った男が、件の黒沼青葉だろう、と口の端を痙攣させて臨也はイライラと青葉を見た。青葉の手は未だ帝人の両手を握っている。
「折原臨也が見つかって良かったですね先輩!もう情報屋やめるんでしょう?うちの会社で社長やってくださいよ!」
「社長は君だろう?」
「俺は二番目にいる方が本領発揮できるんですよ、知ってるでしょう先輩?帝人先輩が社長で俺が副社長兼参謀!また昔みたいに世直ししましょうよ!」
「悪いけど、僕しばらくニートだから。ニートやめても君のとこでは働かないけど」
明らかに温度差のある二人をギリギリ見ていると、くいくいと服の裾を九瑠璃が引いた。
「どうした九瑠璃?」
「止(とめないの?)……」
「ああ……」
臨也は少しためらう。入る隙がないような気がした。
「否(いくじなし)……」
「青葉君、いい加減にしないとまた帝人さんに刺されるよ!」
舞流がけらけら笑いながら言った言葉に、臨也は首を傾げた。
「刺す……?」
「帝人先輩にならどこを刺されてもいいです!さあ帝人先輩俺を刺してください!」
「気持ち悪いよ青葉君。いいからさっさと入りなよ。あ、持ってきてくれたお酒は冷蔵庫にいれといてね」
「はい喜んで!」
と言いながらもやはり帝人の手を離さない青葉の手を、業を煮やした臨也が引きはがした。
「やあこんばんは青葉君」
「あれ、いたんですか臨也さん。ちっとも気付かなかったな」
「白々しいよ」
「はは、帝人先輩の気を引くためだか何だか知りませんけど、記憶喪失のふりするとか手が込み過ぎじゃありません?そんなに暇なんですか?」
「悪いけど演技じゃないんだ。まあ、」
ぐい、と帝人の方を引き寄せて、その頭にキスする。
「帝人君を愛してたことは覚えてたみたいだけど?」
青葉がぎりっと歯噛みする。その顔を見て臨也は少しだけ溜飲を下げた。しかし、黒沼青葉とは絶対に気が合わない。
「はいはい二人とも、喧嘩はそれくらいにしてくださいね。三人とも中に入って。九瑠璃ちゃん舞流ちゃん、冷蔵庫に飲み物が入ってるから、悪いんだけど好きなもの飲んでくれるかな?そろそろみんな来るだろうからお迎えしなくちゃいけなくて」
「はーい!任せてよ帝人さん!イザ兄に舞流特性スペシャルドリンク用意してるから!」
「飲めるもの作れよ舞流!」
「大丈夫だよ〜飲んで無害なものを全部ぶちこんでできた液体もやっぱり無害な飲み物だからさ!」
けらけら笑って青葉を引きずっていく舞流の後ろで、九瑠璃がぺこりと頭を下げた。
「俺絶対、あいつのこと嫌いだった」
「青葉君ですか?それは同族嫌悪というんですよ臨也さん」
「あいつ君のこと好きだよ」
「焼き餅ですか」
「妬いたら悪い?」
「いえ」
帝人は悪戯を決行する前の子供のような顔でふふと笑って、臨也の耳元に唇を寄せた。
「あの子が本当に好きなのはあなたの妹さんですよ。どちらなのか、それともどちらもなのかはわからないですけどね」
「はあ!?俺やだよあんなのが弟になるなんて」
「向こうも同じことを思っているから踏み込まないんでしょう。ま、そのうちあなたの妹さんたちがプロポーズするでしょうから待っててくださいよ」
「…………そうなる前にやつを……」
「ちゃんとお兄さんやってるんですね臨也さん。偉いですよ」
「……ま、実感なくてもあんなに懐かれるとね……かわいいと思うだろ」
「そんなかわいい妹さんに初っ端から急所狙われちゃって可哀そうですね」
「君、遊んでる?」
「いいえ。楽しんでるだけです」
***
作品名:こうやって過ぎていく街から 作家名:すがたみ