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こうやって過ぎていく街から

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 優人は事情を話し終え、ぬるくなったコーヒーで喉を湿らせた。
「優人さんは、全生活史健忘なんですね?」
 静かに話をきいていた帝人が切り出すと、優人も春香も驚いたような顔をした。
「ええ、そうです。……病気に詳しいんですか?」
「情報屋ですから」
 全生活史健忘という、ほとんどの場合はストレスなどが原因で現れる症状だ。自身のことだけを忘れてしまい、それ以外の生活――例えば、文字の書き方や、計算の仕方など、そういったことは覚えていても、自分のこと、その周囲を取り巻く人間関係などの記憶が欠落してしまう。
 普通は、時間と共に記憶も戻るのだが、優人の場合はストレスだけではなく体への強い衝撃により記憶を喪失している。
 こういったケースは、ストレス以外にも複雑な障害を引き起こしているために、治療は困難とされていた。四年も記憶が戻らないのはそのせいだろう。
「事故ではなく事件性もあるということで、警察に相談したり、孝三さんが色々と手を尽くしてくれていんですが、収穫はない状態です」
「ほかに、情報はありませんか。どんな些細なものでもいいんです。当時着ていた衣服、持っていたもの、状況、怪我の具合」
「カルテのコピーと治療の経過報告書があります。持ち物はありません。当時の服は酷い状態だったということで処分されていました。僕が助けられた時の状況は、春香の方が詳しいかと」
「ええ。私がずっと、優人についていたんですもの」
 春香が、得意げに頷く。
「カルテを持ってきます。それまで、春香から話をきいてもらえますか」
「わかりました」
 優人は小走りで喫茶店から出て行った。
 それを横目で見送って帝人は春香に向き直った。
「単刀直入に言うわ」
 春香が帝人を睨みつける。
「手を引いて欲しいの」
「どういうことでしょう?」
「情報を集めるフリをして。手は尽くしたがわからなかった、そう報告してくれればいいの」
「申し訳ありませんが、私の依頼人はあなたではなく優人さんです」
「依頼料はいくらでも払うわ。言う通りにして」
 帝人は、冷えて不味くなったコーヒーを飲む。
「情報屋は、信用商売なんです。そういうスタンスで仕事をすれば、すぐに干されます」
「誰にも言わなければわからないでしょう!」
 声を荒げる春香を、帝人は静かに見返した。
「情報伝達の恐ろしさは、あなたよりも私の方がよく知っているでしょうね。今の話は、きかなかったことにします」
「痛い目を見るわよ……っ」
「そのままお返ししますよお嬢さん。私はヤクザ屋さんともロシアンマフィアとも仕事の取引をしています。あなたのお父様がどれほどすごいかは知りませんが、少なくとも、そういった方々に会社を訪問されれば困るはずですよ」
 春香が椅子を蹴立てて立ち上がったのと、優人が喫茶店に走りこんだのは同時だった。
 優人は困惑した顔をして帝人と春香を見、不穏な空気を感じ取ったのか「どうしたんだ?」と眉を潜めた。
「気分が悪いから、部屋に戻るわ」
「春香?」
「あなたも、その人にカルテを渡したらすぐに戻って!」
 春香はずかずかと苛立ちを足取りに滲ませて、消える。
 優人は苦笑して、春香が座っていた椅子を正して座った。
「すいません。彼女が何か失礼なことを?」
「お互い様ですので気にしないでください」
「彼女は一人っ子で、大事に育てられたので、子供のようなところがあるんです」
 渡されたカルテに目を通して、帝人は顔をしかめた。
 打撲、裂傷、複雑骨折、内臓が破裂寸前までいっている。よくぞこれで、生きていたものだと思わせるような内容だった。
「酷いでしょう?いったい、記憶を無くす前の僕は、何をしていたんだか」
「……思い出すことを拒否するほどのことを、していたのかもしれませんね。あなたのご病気については、もう説明する必要はないでしょうが、ひとつだけいいでしょうか」
「どうぞ」
「思い出さない方がいいことも、あるのかもしれません。全生活史健忘はストレスによって引き起こされることはご存知でしょう。記憶を取り戻せば、あなたはもう生きていたくなくなるかもしれません」
 優人は無言で帝人を見返して、ふ、とこぼすように息を吐いて、笑った。
「それでも僕は、思い出したい。あなたは、記憶を失ったことがないでしょう?」
 帝人は頷く。
「とても、気持ちの悪いものですよ。自分のことがわからないのは。いったいどんな生活をしていたのか、交友関係は、家族構成は、どんな学校に通っていたのか、何が好きで、何が嫌いだったのか。全部全部、思い出せないんです。年齢も、本当の名前が、なんというのかすら」
「お察しします」
「ありがとう。でも、あなたにはわからないだろうな」
 優人は苦笑して、頭を掻いた。
「孝三さんも、春香も、とても良くしてくれます。記憶なんて戻らなくても一生面倒見てくれるとまで。でも、僕は嫌なんです。このまま、なにもわからないまま死んでいくのは、絶対に嫌だ」
 その一瞬だけ、優人は顔に苦悩を刻んだ。
 帝人はそれに対して言葉を返さず、メモの切れ端をテーブルに置いた。
「……私の、携帯の番号です。何かあったらこちらにご連絡ください」
「前金を、」
「成功報酬で結構です。この依頼は、予想以上に難しそうですから」
「あなたでも、難しいですか」
「私のことを、よく御存じですね」
「神様や占い師とまで言われている、池袋の情報屋さん。今日は、コートを着ていないんですね」
「こういう場所には、不釣り合いなコートなもので。また機会があればお見せしますよ」
 伝票を取ろうとした帝人の手を、優人が上からそっと抑えた。
 黒よりは褐色に近い瞳と、視線が交わる。
「僕はもしかして、あなたに会ったことがあるんだろうか?」
 帝人は微笑んで、優人の手から自分の手を引き抜いた。
「私は、あなたに会うのは、初めてです」
「失礼しました。ああ、ナンパではないんですよ。少しでも既視を感じた時は、そう伺うようにしているんです」
「わかっています。今日のところは」
「はい、よろしくお願いします」
 頭を下げる優人に、帝人も会釈をして、喫茶店を出た。
 ホテルに出ると、灼熱の太陽が肌を焼く。

 帝人は目を細めて、歩き出す。

 難しかろうが、容易かろうが。
 倫理が許そうが、許すまいが。
 気持ちが納得しようが、納得しまいが。
 帝人のすべきことは変わらない。
 彼女はただ淡々と、情報を集めるだけだ――