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こうやって過ぎていく街から

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 宮城優人の件に専念するため、やりかけだった仕事を全て終わらせた。あちらこちらへ奔走していると、夕焼けが少しずつ消えていき、空には紫紺の闇が広がりつつある。まだ明るいが、もう19時を過ぎていた。帝人は少し迷って、携帯を開いた。

【今から伺っても大丈夫ですか?】

 数分で返信がくる。

【いいよ。仕事の話?】

【はい。では今から行きます】

 ぱちん、と携帯を閉じた帝人が向かった先は、大きなマンションだ。呼び鈴を押すと、返事と共にロック式の自動ドアが開く。
 帝人を出迎えた岸谷新羅は、眼鏡の奥の瞳を柔和に細めた。
「やあ。久しぶりだね帝人君」
「こんばんは、新羅さん。突然すいません」
 申し訳なさそうに帝人が頭を下げると、新羅はからからと笑って「いいよいいよ。仕事もないし、君が来ると僕のセルティが喜ぶからね!」と、頬を染めて腕を胸の前で交差し、ぎゅうぎゅうと自分の体を抱きしめた。
 そんな新羅の後頭部を、ばしんと叩いたのが新羅の恋人であるセルティだ。
「ごふぁっ!」
【すまないな帝人君、新羅がうるさくして。中に入ってくれ】
 そんな文章が打ち込まれたPDAを向けられ、帝人は苦笑する。
「いえ。おふたりは、相変わらずですね」
【恥ずかしい】
 セルティが肩を落とした。もし彼女に頭があったなら、がっくりとうなだれていただろう。
 セルティ・ストゥルルソンは人間ではない。
 そしてセルティ・ストゥルルソンには頭部がなかった。彼女の細い首の上には、ぽっかりとした空間がある。彼女は頭部を失ったデュラハンというアイルランドの妖精だ。彼女は失った頭部を探す道程で新羅と出会い、種族の垣根を越え恋に堕ち、内縁の夫婦となっていた。
 セルティと新羅に先導され、リビングのソファに落ち着く。
【コーヒーでいいか?】
「はい、ありがとうございますセルティさん」
【気にするな】
 セルティがキッチンへと向かうのを待って「さて」と新羅が微笑んだ。
「それで、話というのはなにかな」
「全生活史健忘について、詳しい話をききたいと思いまして」
「全生活史健忘?仕事相手は記憶喪失者なのかい?」
「ええ。その方の情報を集めるのが、今回の仕事なんです。問題なのは、ストレスだけで症状が現れたというわけではなくて」
 カルテを差し出す。
「頭部、そして全身の強い衝撃。もう四年、記憶が戻らないそうです。いったいどこの誰だかすらわからない状態で」
 カルテを見た新羅は、うーむ、と唸った。
「これでよく生きていられたなあ。まさしくゴキブリ並みの生命力だね。大抵、全生活史健忘は普通の生活をしていく中で、短期で元に戻るものだけど……。身元が分からないと言っていたね」
「はい」
「四年か。まず、身元を突き止めて、家族や記憶を失う前に馴染み深かったものに触れ合わせるしかないんじゃないかな」
「それが今のところ、最大の問題ですね。僕の手にある情報は、いまはそのカルテだけなんです」
「記憶が戻ったとしても、今度は自殺衝動と鬱状態が待ち受けている。支える人間がいないなら、このままそっとしておくのもひとつの手じゃないかな」
 彼にとって、今の生活が幸せであるなら、と新羅は付け足した。
 宮城優人には、彼を愛する美しい女性が傍におり、地位的にも充実している。【手は尽くした、でもわからなかった】春香の望みを叶えるわけではないが、もしかしたらそれもいいのかもしれない。少なくとも、宮城優人を取り巻く環境は悪くはないのだから。
 帝人が沈黙し、新羅がカルテと治療経過をつづった文書を見ていると、セルティが盆にコーヒーカップをふたつ載せて、やってきた。彼女に頭部はなく、すなわち口もない。飲食をすることは不可能だった。
【話は終わったのか?】
 セルティの問いに、新羅は笑った。
「一度、その依頼人をここに連れてきてみたら?一応、診察らしきことはできるよ」
「記憶喪失者に、新羅さんは刺激が強すぎると思うんです」
 帝人が苦笑すると【依頼人は記憶喪失なのか?】とセルティがPDAを見せる。
「はい。四年も記憶が戻らないそうです。依頼人の恋人に、余計なことはするなと言われました」
「恋人までいるのかい?まるで昔の僕たちみたいじゃないか!ああセルティ!愛してる!」
【黙れ】
「言う通りにするのもいいかもしれませんね……思い出す記憶が、幸せとも限らないし」
【それでも、依頼人にとっては大事な記憶だ。幸せだろうと、不幸だろうと、本人が望むのなら、君は全力を尽くすべきだ】
 きっぱりとした文章を見せられて、帝人は俯く。セルティははっとした様子で、わたわたと再びPDAを操り、【もちろん、決めるのは帝人君だ!すまない、余計なことを言ってしまったね。なんとなく、他人事のような気がしなくて……】
 セルティには、頭部を失う以前の記憶がない。新羅に恋をする前まで、彼女は死に物狂いで自分の頭を探していたのだ。彼女にきかせるべき話ではなかった、と帝人は反省した。
「僕には、依頼人の恋人の気持ちがわかるけどね。愛する人を繋ぎとめるためだったらなんでもするよ。だから、注意した方がいい。恋人にとって、君は今の生活を脅かす最大の敵だから」
【あんまり、脅すな】
「ああセルティ、僕は幸せだ。古今東西、僕以上の幸せな男はいないだろう。君は俺のためにすべてを捨ててくれた。愛してるよセルティーーー!俺は永遠に君を愛すうううううう!」
【いちいち一人称を変えるな、うっとうしい】
 そういいながらも、セルティはどこか嬉しそうだ。
 セルティを愛し、彼女を傍に置くために手段を問わなかった新羅。
 新羅を愛し、頭を、記憶を、取り戻すことを諦めたセルティ。
 頭を取り戻せば、新羅を忘れるかもしれない。デュラハンとしての本能のまま生きるようになるのかもしれないという恐怖。
 己の全てと、新羅。
 セルティが選んだのは新羅だった。
 コーヒーに口を付けながら、帝人はほぅと息を吐く。じゃれ合う新羅とセルティを見て、微笑ましく思いながらも、寂しくなる。
「時間をとってしまってすいませんでした、新羅さん。もしかしたらまた、相談させていただくこともあるかもしれませんが」
「構わないよ。セルティの友達は僕の友達さ!いつでもどんどん頼ってくれ!」
「ありがとうございます」
【帰るのか?送ろうか?】
「まだ、やらなければいけないことがあるんです。ありがとうございますセルティさん」
「これは、本当に脅しているわけじゃないんだけど。気を付けるんだよ帝人君。愛に狂った人間は、何をするかわからないから」
「はい。じゃあ、そろそろ。コーヒーごちそうさまでした」
【ああ、じゃあ、あまり根を詰め過ぎるなよ帝人君。私もできることは協力するから】
「とにかく、情報を集めようと思います。このまま悩んでいても仕方がないし」
 岸谷家を辞去すると、外はすっかりと夜の色になっていた。
 それでも、街頭や家々の灯り、店のネオンで通りは明るい。
 帝人は携帯を開き、かちかちと操作すると、ポケットに突っ込む。