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こうやって過ぎていく街から

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「あの、情報屋っていう人、胡散臭くない?」
 春香はむっつりとしたまま、ベッドに座ってぼぅとしている優人に言った。
 優人は「そう?」と、心ここに非ずな様子で呟く。
「別に、そうは思わなかったけどな。むしろ、誠実そうな人で安心した」
 その言葉に、春香の心はぎりぎりと燃え立つように軋む。春香は、優人の記憶が戻らなければいいと願っている。もし戻れば、優人が自分から離れることを、彼女は確信していたのだ。
「依頼、取り消せば?もっとほかの、信頼できる人に頼みましょうよ」
「春香?」
 優人が、怪訝な顔をして春香を見る。
「私、」
 ピリリリリ、と電子音が響いた。
「……電話だよ」
「ええ」
 春香はのろのろと、テーブルの上の携帯を開いた。
「……知らない番号だわ」
 数回、コールが続いて、ふつりと途切れる。
 そしてまた、コール。

 ピリリリリ
 ピリリリリ
 ピリリリリ

「俺がとろうか?」

 ピリリリリ
 ピリリリリ
 ピリリリリ

「友達が番号を変えたのかも」

 ピリリリリ
 ピリリリリ
 ピリリリリ

「――もしもし?」

【もしもし?】

 春香は、ざっと全身の血が下がったのを感じた。足元がぐらぐらする。
「あなた……!」
「……どうかした?」
「いえ……なんでもないわ。友達。ちょっと、ロビーで話してくるわね」
 不思議そうな優人にぎこちない笑みを向けて、春香はそそくさと部屋の外に出た。
「どうしてこの番号を知ってるの!?」
 携帯の向こうで、情報屋が笑った。
【私の職業をお忘れですか?情報屋にわからないことはないんですよ】
「何の用よ!私のいうことをきいてくれるわけ?」
【いいえ、あなたに、質問をしたいことがあって】
 優人に会話を聞かれたくはない。春香はロビーへと向かうため、エレベーターに乗り込んだ。

【あなた、本当は優人さんがどこのだれか、知っているんじゃないですか?】

 電波を介した声が、ぼわん、と耳の奥で反響する。

「――は。知ってたら、彼に最初に教えてあげているわ」
【あなたが優人さんを助けた時、彼は本当に、何も所持していなかったんでしょうか。クレジットカード、免許証、保険証、携帯、手帳。衣服は本当に、処分されたんでしょうか。記憶喪失者にとって、記憶をたどる手段となるものを、本当に処分したんですか?】
 エレベーターが、止まる。
 春香は、扉が開いたエレベーター内で、叫んだ。
「本当よ!」
 エレベーターに乗ろうとした人間が、驚いたように動きを止める。春香はばつが悪そうに顔をしかめてエレベーターからおりると、ロビーのソファに座った。
「服は酷い状態だったの。破れていたし、血や泥や、よくわからないもので汚れていたわ。服は手術の前に切り裂かれて、そのまま捨てられたのよ」
【それこそ、ありえない話ですよ。身元不明の患者の私物を、病院の関係者が処分することはあり得ません。例え、最初の時点で彼が記憶喪失者であるとわかっていなくても】
「何が言いたいのよ!」
【あまり大きな声をだすものではありませんよ春香さん。そこはあなたの家ではないんですから。フロントの人も、ホテルのお客さんも驚いているでしょう】
「ここにいるの!?」
 春香は立ち上がって、周囲を見渡す。ふふ、と情報屋が笑った。
【そんなにきょろきょろしなくても、私はそこにはいませんよ】
「どこから見てるの!」
【私は、あなたの姿が見える場所にはいません】
「じゃあ、なんで……なんでわかるのよ」
【さあ、どうしてでしょう。情報屋から情報を引き出すのはとても難しいことです】
 ふふふ、と笑う情報屋に、背筋が冷えた。ロビーは快適な空調に保たれており、夏の暑さは忍び込むことすらできないというのに、肌がじっとりと汗を掻く。
「私に妙な真似をすれば、ただじゃすまないわよ」
【昼間にもお話しましたね。そんなことをすれば、あなたもあなたのお父様も、ただでは済まされないと。私には人ではない友人も何人か、います。春香さん。この世には、あなたの思いもよらない恐ろしいものが、たくさんあるんですよ】
「脅すの」
【最初に私を脅したのはあなたです。いいですか、今、私にはあなたを害そうという気は、これっぽっちもありません。ですがあなたの出方次第ではやられるまえにやってしまおうと考えるかもしれません。私は、私の仕事の邪魔をする人間を許しません。絶対にです】
「あなたにはわからないわ……私の気持ちなんて……」
 春香は唇を噛む。
「優人を助けたのも、動けるようになるまで看病したのも、彼に名前をつけたのも、私よ。優人は私の全てなの。奪われたくないのよ……!」
【あなたは、なにかを失くしたことがありますか?】
「なんですって……?」
【なんでもいいんです。大切にしているもの。アクセサリでも、鞄でも、服でも、本でも、なんなら記憶だってかまいません】
「何が言いたいのか、わからないわ……」
【私はね、あなたのような人を可哀そうだと思うような感情は、情報屋を始めて一年で、失くしてしまったんですよ】
 くれぐれも、私の邪魔をしないように。
 そう言い置いて、情報屋は勝手に電波を切った。
 春香は呆然として、ツー、ツー、と鳴り続ける音を聞き、力が抜けたように携帯を落とした。
 周囲を見る余裕などない。
 ぐるぐると、頭の中でいろいろなものがめぐっている。
 情報屋の言葉、優人のこと、自分のこと。
 いろいろなものが、意味を成すことなく廻っている。文章ですらない、単語が、次々浮かんでは消える。
「春香?」
 声を掛けられるまで、優人が近くにいたことにも気づかなかった。
「なにかあったのか?顔色が悪い」
「なにも……なにもないわ……」
 優人は、開いたまま春香の足もとに落ちていた携帯を拾った。「傷がついてる」
「ああ……ええ、そうね……新しいのを、買わなくちゃね……」
 優人は、様子のおかしい春香の手を握って、立たせる。春香は、ぎゅっと、痛いほどの力で優人の手を掴んだ。
「どこにも行かないで……」
「本当に、何があったんだよ?」
「私怖いのよ……あなたがどこかに行ってしまうんじゃないかって……怖いの。お願い優人、どこにも行かないで」
 優人は笑った。
「行かないよ。ほかに行くところなんて、どこにもないじゃないか」

***

 携帯を閉じて、帝人は目を閉じた。
 瞼越しに、パソコンの画面が輝いているのがわかる。
 ブラフは張った。
 仕事を邪魔すればただじゃおかない、という言葉は嘘ではないが、そのために取引をしているヤクザやマフィア、ましてや人間でない友人たちを頼ることはしない。名前を使わせてもらうことは、あるが。
「……疲れた……」
 帝人はぽつりと呟いて、かくん、と肩の力を抜く。握られたままの携帯が、ふらふらと揺れた。
 体は疲れている。だが頭がどうにも冴えていて、横になったとしても眠れそうになかった。
 数秒、だらりと体の力を抜いて目を閉じていた帝人は、己を奮い立たせるように目を開いて、キーボードに指を置いた。
 心地よく、そして居心地の悪い情報の波間に揺蕩うために。