【無二の接点】
作業を進めながら竜ヶ峰は助手として体験した日々を朗々と語る。後任になるのが決まったところまで話して、でもね、と急に語調が低くなる。
「あの人の整理していた書類やデータから僕は知ってしまった。彼が抗争の黒幕だったと」
暗闇の中で、重みに耐えかねた枝からどさりと雪の固まりが落ちる音が沈黙に際立った。
「それで…どうしたんですか?」
「わざとかもしれないと思ったから、とりあえずは気付かないフリをしていたよ。また利用されるなんて絶対嫌だったし」
手を止めた竜ヶ峰に僅かに園原は身を引く。
「竜ヶ峰君。あなたは何を知っているの? 何をしたの?」
「園原さんは本当に何も知らないんだね」
にこりと竜ヶ峰は不自然なほど自然に笑いながら、コートのポケットに手を差し入れる。
「折原さんは正臣とも会っていたんだよ」
「何のために…?」
「さあ? きっと良からぬことじゃないかな。答えは折原さんに聞いてみてくれないかな」
竜ヶ峰が取り出したのは、ナイフだった。
●2月6日
夜。紀田邸。
「君達とこうして昔話をするのもこれが最後かな。俺は今でもあの頃のことは鮮明に覚えているよ。まだ時効になるほど昔じゃないしね」
ほろ酔い気味の臨也は上機嫌に食後酒の注がれたグラスを傾けた。
「脅す気ですか?」
対して紀田正臣は素面のまま鋭い視線を返す。
「違うよ。出来たら一人仕事を探して欲しいだけ」
差し出された封筒を険しい顔つきで受け取ると、正臣は中も確認せずに答えた。
「臨也さんの後任って奴に初仕事ってことで頼んでみます」
ありがとう、と整った顔が笑えば世の女性は大抵のことは許してしまうだろう。生憎向けられた相手は男には全く興味のない青年だったので恩恵はなかった。それを気にする様子もなく、臨也は残り少なくなったグラスの中身を飲み干した。
「俺はね、誰とも生涯を共にする気はなかった」
グラスを置くと徐に席を立ち、
「でもシズちゃんに会って思ったんだ」
大仰に天に向かって両手を広げて声を上げた。
「生まれ変わりたい! 生まれ変わって新しく生きて行きたい!」
それは謳うように。広い室内に響き渡る。
「私は何をすればいいですか?」
二人のやり取りを静かに脇で見ていた女が感情のない声で臨也に問い掛けた。その言葉に先に正臣が反応する。
「沙樹…お前もしかして、ずっと臨也さんの命令で俺の傍にいたのか?」
動揺を帯びた正臣の言葉に沙樹は無表情に小さく頷いた。
「正臣のことは本当に好きだよ。でも私には臨也さんが絶対なの」
異様にも取れる沙樹の忠誠に臨也は興味のなくなった玩具を見るような瞳を向けた。そして次には冷えた笑みを作る。
「君は何もしなくていい。君はお役御免だよ、沙樹。もう必要ない」
「死ね、ということですか?」
「そうして貰っても構わないよ。それが嫌なら俺を裏切って正臣君についてもいい」
「…そうですか」
「臨也さん…! アンタ、沙樹を何だと思ってるんだ!!」
今にも殴りかかりそうな正臣の拳に咄嗟に横から伸びた沙樹の指先が触れる。死ねと言われてなお臨也を庇おうとする沙樹を睨みつけた瞬間、正臣は息を呑んだ。その瞳は涙で濡れていた。細い指先はまだ拳を留めさせている。けれど双眸は無言で、死にたくない、と訴えているように正臣に映る。
「さあ。二人で結託して俺を闇に葬るかい?」
●2月7日
「昨晩は随分遅かったですね」
「ああ、この地を去るが名残惜しくてねえ。つい旧知の人と話し込んじゃったんだ」
「本当にもう戻らない気なんですか?」
「うん。今日でこことも、君ともお別れだ」
自分の荷物を東京に送ってしまい、すっかり物の減った事務所のソファに凭れかかって臨也は天井を眺めた。
「ああ、仕事に関して何かあれば連絡してくれて構わないから。と言っても帝人君なら大丈夫かな。心配なのは一人残していく彼女のことだなあ」
「彼女?」
「まあ、愛人、みたいなものかな」
愛人、という単語に竜ヶ峰は眉を顰める。臨也のプライベートにまで口を挟む気はないが、東京に恋人がいると知る竜ヶ峰には見知らぬ愛人と呼ばれた女性が哀れに思えてならなかった。
「あなたのような男が女を苦しめるんです」
「帝人君?」
「あなたみたいな人間、一度死ねばいい」
「やだなあ、君のキャラじゃないんじゃない?」
「あなたは死ねばいい。そうすればその彼女もきっと諦めますよ」
「本気かい?」
「ええ。自殺を偽装するんです」
「…へえ」
臨也は自分の手で簡易な遺書を認めて、そしてその夜、二人は断崖に立った。吹きすさぶ冬の風が頬を叩き、髪を掻き乱す。
「ここに彼女の住所がある」
「わかりました。あなたの得意先のオーナーに直接依頼してみます。これからは会う必要もあるでしょうし。後のことは僕に任せてください」
忘れないうちに、と手渡された封筒の中を確かめずに竜ヶ峰はコートのポケットへと捩じ込んだ。
「それにしても凄いな。確かに遺体が上がらないこともありそうだ」
崖の先端で海を覗き込むその背は無防備だった。竜ヶ峰には抗争の原因であることを知り、抱いた感情があった。鳴りを潜めさせていた燻る黒い感情が竜ヶ峰の内で小さな火となる。
「折原さん」
足元には直筆の遺書もある。このまま背中を押せばどう見ても自殺。
今ここでこの背を押せば…この人は死ぬ。竜ヶ峰の耳には強い風の音が、遥か下で轟く波の音が、そう囁いたように聴こえた。
未だ海を眺めている臨也の背後で竜ヶ峰の唇が怪しく弓なりになる。
***
北陸行きの列車内。
静雄の脳裏に夜の海へ落ちていく臨也の断末魔が響いた。自分の中で導き出された恐ろしい結論に思わず身を竦める。
(竜ヶ峰は臨也を見つけさせる気なんてなかった。奈倉として臨也は自殺したんだと俺を諦めさせたかったんだ)
新羅を園原の名を騙って刺して、警察には赤いコートの人物を敢えて目撃させる。園原のアパートでは怪我を負ったのは恐らく自作自演。自分は被害者として、まんまと園原に疑いを向けさせた。
(臨也は本当に死ぬ気だったのか?)
しかし同時に疑問が浮かんだ。あの折原臨也が簡単に仮にも助手にそんな真似をさせるだろうか。
「違う」
静雄は確信を持って呟いた。
***
北陸。
「折原さんが海に落ちるのを見てから、驚いたよ。頼まれた女性というのが園原さんで、オーナーがまさか正臣だったなんて」
淡々と語る竜ヶ峰に園原は力なくかぶりを振った。
「もう昔のことでどうこうしようなんて気はなかったんじゃないですか?」
「そんな保証ないよ。一番好きなようにされたのはダラーズだったしね」
「次は私?」
園原が向けられたナイフの切っ先を見詰める。
「容疑者にされているから逃げてって、あなたが私の前に現れた時は驚いた。ほとぼりが冷めるまで匿うからと私をあなたの家で寝泊りさせて…今日は寒いからこれを着ていけなんて…みんな私がやったことにする気だったんですね」
赤いコートの襟元を引き寄せる。自分のものではないその丈は園原には少し長い。園原は痛ましく顔を歪めたが、その眼差しには力があった。