夜を駆けていく
じっとして、朝はきっともうすぐ
上流階級の屋敷が立ち並ぶ丘の上は、スラム街と違って深夜はほとんど明かりが灯されていない。
完全に寝静まった辺りは、隠密行動には最適な環境だった。ペンギンとキッドは昨日と同様、生垣を飛び越えて屋敷の内部へと侵入する。
「じゃあ、おれたちは見張りにあたるから」
待っていたシャチと共にペンギンは離れていった。
キッドは中庭の隅っこに寂しく追いやられている鉄の車に視線をやって、わずかに窺えるローの姿を眺めながら近づいていった。
檻の中の猫は夜目が利くのか、耳をピンと逆立ててこちらを振り返ってくる。キッドの姿を見るや、軽く目を開いて驚き、その後で落ち着かない感じに手や尻尾をパタパタと動かしていた。
ペタンと座り込んだままの足が動くことはない。白い毛布は隠すためもあるが、足を冷やさないためでもあるのだろう。
「……ユースタス屋」
戸惑ったような素振りを見せつつも、頬を赤く染めるローは会えたことを「嬉しい」と思っているようだ。
キッドは小さく笑って安心させてから、ローの正面ではなく右側へと回った。
「……ユースタス屋?」
人力車の後方に、檻の出入り口がついている。キッドはそこにある取っ手を掴み、やや力を込めて手前に引っ張った。
キィ。
鉄の扉は、なんとも呆気なく開かれた。
「……チッ」
本当に開きやがったと、キッドは軽く舌打ちする。中にいたローはさらに大きく目を見開いて、キッドが何をするつもりなのかを唖然とした様子で見守っていた。
小さな梯子に足を掛けて檻の中へ入る。そう大きくもない檻は入り口も小さく、肩や足をゴツゴツぶつけながらの入室となった。
立つことなど到底できない高さのため、キッドは胡坐をかいてどっかりと腰を下ろす。右隣にいるローは声も出せずに驚いたままだった。
鉄の棒に遮られない状態で、キッドは改めてローの姿を眺めてみた。
華奢である。どうしても、まずそこが気になった。
「お前、ちゃんとメシ食わしてもらってんのか?」
「……えっ?」
キッドの質問に、ローはやっと目を覚ましたようにハッとして、自分の身体を眺めている。
「た、食べてるけど……?」
「細い身体だからよ。じゃあ、貴族は一応、メシは出すんだな」
「そりゃあ、死んだら元も子もないし。労働力ってやつだから、罰以外でそういうことはねぇよ。今はシャチがメシ抜きになってるから、おれとペンギンで分け合ってるけど」
「……ふぅん」
ただでさえ少ない食事量なのだろうに。スラムだって貧しさという点では負けていないけれど、キッドは小さいとはいえ組織のボスの座についている。
昔はともかく、今は毎日きちんと食べられるだけの蓄えはあった。豊富に、とまではいかなかったが。
じっと、猫の瞳がキッドに注がれている。
「なんだよ?」
「……あっ、な、なんでもない」
つい、と逸らされる視線。「しまった」とキッドは思った。猫を怯えさせるのはNGだ。ここにペンギンがいたらまた叩かれているところだった。
キッドは頭がつかえそうなほど低い天井を見上げてみた。床となる部分以外はすべて黒い鉄の棒で囲われている。
風が吹けば砂埃がまき上がり、天気が悪ければ雨がザーザーと落ちてくる。恐らく天候不良のときはペンギンとシャチが策を施して凌ぐのだろう。
「……寒くねぇか?」
キッドは胡坐をかいた膝の上で頬杖をつき、視線は外を向いたまま聞いた。ローがこちらを振り返ってくる。
「暖かいから平気」
相変わらず女性用の下着に似た服を着せられているローは、キッドの気遣いに嬉しそうな笑顔を見せた。
白い毛布を膝の上に掛け、両手がそれをギュッと握り締めている。その下がどうなっているのか、気にならないと言ったら嘘だ。
「ユースタス屋、その……」
「ん?」
言葉を発することを躊躇っているローを、キッドは焦らないで待った。
「……なんで、こんな檻の中になんか……」
入ってきたのか、と続くだろう言葉は口の中で終わっていた。
「見つかると面倒なんだろ? 後でジタバタするくらいなら最初からここにいたほうが楽だ」
それはもっともな理由だったけれど、すべてではなかった。キッドはペンギンから過去の話を聞かされて、そばにいてやりたいという気持ちになったのだ。
「……でも」
「なんだよ。おれがいいって言ってんだから、いいだろ」
「う……、でも、ユースタス屋は奴隷じゃねぇのに」
檻の中になんか入ってはダメだと、ローは言いたいのだった。ここに入るということは、人間としての尊厳や誇りといったものを失くすのではないだろうか。
キッドはローが初めて好きになった人間だから、最後までそのままでいて欲しいのだ。
たとえそれが、永遠の別れに繋がるとしても。
「トラファルガー、おれをよく見ろ。真っ直ぐ、ちゃんと正面から」
非常に真摯な声に、ローは自然と居住まいを正してキッドを見つめた。
鉄格子の中にいる男は、炎のような赤い髪を逆立て、逞しく鍛え上げられた体躯を窮屈そうに屈めながらローを見ている。
最初に目が合ったときと何も変わらない。強く引き付けられる理由は、キッドが何者にも屈しない魂の持ち主だからだった。
「おれが奴隷に見えるか?」
ブンブン、とローは首を横に振った。
「檻の中に入ったからといって、おれの心までが奴隷に成り下がるわけじゃねぇ。だから安心しろ」
ローは無言で、今度は頷いた。
けれど、少しだけチクチクと胸が痛んだ。
ローだって何も好きで奴隷になったわけでも、見世物として檻の中に入っているわけでもないのだ。
十年前は本当にただの子供だった。上手い立ち回り方なんて知らなかった。いつでも歯向かって、抵抗して、傷だらけになっていた。人間にはない耳と尻尾を持つローの味方になってくれる者など一人もいなかった。
異形のものと恐れられ、蔑まれてきた孤独の中でやっと出会えたペンギンとシャチの二人が、ローにとってどれだけ大きな存在と成りえたのか。
二人を失いたくなかったのだ。
子供だった三人にはわからなかった。一番まずい方法を選択してしまったことに気づいたのは、三人が少しずつ世の中のことを知りだしてからだった。
じんわりと、瞳にあふれだしそうな量の水が溜まっていく。瞬きをしたら零れ落ちるとわかっていたから、ローは堪えていた。
視界に映る白い布がずっと滲んでいる。
足に怪我を負ったとき以降、ローは泣いたことがなかった。泣いたら、貴族に負けたような気がして嫌だったのだ。
滲む視界のせいで気づかなかった。
いつの間にか、すぐ隣までキッドが近づいている。
「……えっ?」
驚いた弾みに、瞳からぽろりと雫が落ちてしまった。ローは慌てて拭おうとしたが、それより先にキッドの腕によって手前に引き寄せられていた。
ギュッと抱き寄せられて、顔は肩口へと埋められる。
「ユ……」
「泣けよ、すっきりするぞ」
その言葉に、泣けない、とローは肩の上で首を振った。
「……ハハ、耳、くすぐってぇ」
「えっ、あ、ごめ……」
すぐそばにキッドの顔がある。密着している状態を意識したローは真っ赤になった。