夜を駆けていく
「おれは、奴隷なんてもんがいるなんて本当に知らなかったんだ。お前らのこと知って驚いた。別に責めてんじゃねぇんだよ。十年間よく耐えたと思うぜ?」
キッドはローを抱きしめ、あやすように背中も叩きながらゆっくりと話した。
貴族の暴力に耐え、見世物となる屈辱にも耐え、奴隷という身分に抗いながら大切なものを守り通してきた日々は、キッドの想像以上にきつかったはずだ。
「ここにあいつらはいねぇ。辛かったって言って泣けよ。おれが許すし、あいつらには黙っててやるから」
ペンギンとシャチの二人も、ローが泣いたからといってそれが重荷になることはないだろうけど。本人たちの前でローができない理由なら、キッドにもわかるつもりだった。
「……、……うぅ……」
背中に回っていた指が、キッドの服をきつく握り締めてくる。泣けと言ったのに、ローは声を押し殺すようにしていた。
小刻みに震える身体を抱きしめながら、キッドは三人の関係を整理する。
失いたくない事情を貴族に知られているからその弱みに付け込まれるのだ。逆らえばどうなるかと脅されれば、彼らは従う以外の方法が取れなくなる。
そうやって互いの命を人質に取られたまま、十年という歳月を過ごしてきたのだろう。
「……おれ……」
「ん?」
ローの身体が大きく痙攣してしゃくり上げた。
「二人に……、っく……、悪いことした、かなって、ずっと思ってて……」
「なんで、だよ?」
キッドには意外な告白に思えた。
「おれが……、あんなこと言わなきゃ、二人とも、もっと自由でいられたかも。一緒になんて、願わなきゃ……」
昨夜の話をキッドも思い出していた。三人がいつも一緒にいるのは、ローが貴族に願ったからだった。
「ペンギンはそんなこと言ってなかったぜ? むしろお前のおかげで自由に行動できるって感謝してたぞ」
ひっく、とまたしゃくり上げる声が聞こえた。
「……ペンギンが?」
「ああ。だから悪いほう、悪いほうへばかり考えんなよ」
そうは言っても、なかなか厳しいのかもしれない。ならばせめて自分がここにいる間だけでも、ローが忘れられるようになればいい。キッドはそんなことを思いながら、猫を抱きしめていた。
寄りかかってくる細い身体に、重みが増した。体重を預けられるくらい、ローはキッドに気を許せるようになったようだ。
立場が違うからできることもある。スラム育ちのキッドにとって、それは新たな発見でもあった。
他にできることがないと、いつしか自分のほうで選択肢を狭めていなかっただろうか。意識しては振り払ってきたつもりでいたけれど、劣等感は長い年月と共に留まり続けていたのだ。
悪いことばかりしてきたキッドにも、こんな風に誰かを癒してやることができる。
些細なことだとしても。何も変わっていなくても。今は腕の中にある重みを感じることで、小さな慰めにしようと思っていた。
*
「寝ちゃった? ……珍しい」
様子を見にきたシャチの声には、驚きが含まれていた。
「珍しいのか?」
キッドに寄りかかったまま眠ってしまったローの身体をそっと横たえ、その上に毛布を掛けてから檻を出る。
「ローさん、というかおれたちも朝が嫌いだからね。朝は憂鬱の始まりでしかないから」
夜明けを本当に待ち望んでいる者などこの中にはいなかった。キッドもそうである。
「それでいつも寝不足気味なんだよ。夜が一番ホッとする時間だから」
つい長話をしてしまうのだと言って、シャチは軽く肩を竦めていた。
「じゃあ、今日はもう帰る?」
「ああ。おれはここにいねぇほうがいいんだろ?」
「まぁね。今ペンギンも来ると……、あ、来た」
必ず同行するのがペンギンなのは、何か理由があるのだろうか。キッドがそれを尋ねると、単純にペンギンのほうが腕も立ち、機転も利くからという話だった。
「おれはローさんの代わりに泥を被る役をやるからいいんだよ」
「ふぅん」
それはシャチなりの矜持なのだろう。キッドは茶化さないでおいた。
また今日もペンギンと共に帰路につこうとしたところで、ふいに、背後が明るくなった。
「!」
「!?」
三人とも咄嗟に身を屈めたのは、良くも悪くもこういったシチュエーションに慣れているからだった。
頭上にある部屋の窓に明かりが灯っている。
──まだ起きてたのかよ!
──悪い。そこが消えるまで待ってくれ。
──かまわねぇよ。
ひそひそと小声で交わされる会話。すぐに中から人の話し声が聞こえてきて、三人は一斉に押し黙った。
聞こえてくる声に、あれは貴族のものだとペンギンが教えてくれた。
「……島での興行も上手くいっているようだな」
「はい、それはもう。申し込みが殺到して処理しきれないほどですよ」
貴族と誰かの会話に、三人は自然と耳をそばだてることになった。話題がローに関することだったからだ。
「あんな生意気な猫でも金になるんだからな。これだから行脚はやめられない」
「ええ! ええ!」
ペコペコとお辞儀をしているだろう様子が、見てもいないのに容易く想像できた。
──胸クソ悪ぃ……。
キッドはイライラしながら貴族の会話を聞いている。
「それで、実は面白いものが手に入りまして」
「面白いもの?」
窓の下の三人も「なんだ?」と集中した。
「『悪魔の実』ですよ! 客の中に、これと猫を交換してくれないかと申し出てきた者がいたんです」
「……ほう」
貴族は少しの関心を持ったようだ。けれど三人は驚きの展開にやや戸惑っていた。
──悪魔の実だって!
──いや、それより貴族がその話を飲んだら……!
まさか、ローがこの島の住人になるということだろうか。キッドは急に降って湧いた話に、頭の中がついていけなくなっていた。
必然的に、貴族の動向を注目することになる。三人は窓の下で会話の続きを待った。
「悪魔の実か……。売れば一億ベリーにはなるな」
声には出さなかったけれど、三人は心の中で金額に動揺していた。奴隷とスラム育ち。そんな大金はもちろん見たことがないのだ。
「あの猫に一億ベリーの実を差し出すか。人間とは滑稽だな! 笑いが止まらんよ」
言葉どおりに貴族の笑い声が上がる。その声は非常にキッドの癇に障ったが、それはまだほんの序の口だった。
「悪魔の実は確かに魅力的だが、売っても一億にしかならん」
──しか、だとぉ?
それだけの金があれば、キッドの夢は今すぐ叶えられるのに。欲に目の眩んだ貴族が好きなだけ贅を尽くせる世の中に、キッドはかつてないほどの憤りと怒りを覚えた。
しかもその金は、ローが払った犠牲によって得られたものなのだ。
貴族はもちろん、三人が外にいることなど知らなかった。少し酔っているのか、悦に入ったまま話を続けている。
「あの猫を見世物にするだけでその倍、いや何十倍もの金額が入ってくるんだぞ? まったく世の中は愚かで愉快だ」
「本当にその通りでございますね!」
「一億ベリーの実ごときと交換するつもりはない。まだあの猫には稼いでもらう。搾り取れるのもあと数年だろう。せいぜいいい金蔓として働いてもらうさ」
──数年?
キッドは隣に視線で問いかけたが、二人とも「わからない」と首を振っていた。