夜を駆けていく
それをするには、十年という歳月があまりにも長すぎたのだ。植えつけられた、貴族や人間に対する嫌悪感と恐怖。檻の中を飛び出すには勇気がいった。ローは歩けないから尚更だった。
この狭い四角の中はローに安心をくれるのだ。ペンギンとシャチもそばにいてくれる。少なくともこの中にいれば恐怖心を抱かずに済んだ。
けれどキッドは昨日、ローの唯一の安全を破って中へと入ってきた。正直に言えば、初めは怖くてたまらなかった。遮られるものがない状態で人と話をするなんて、いったいいつ以来のことだったろう。
「……ユースタス屋」
思い出して、ポツリと名前を呟く。
檻の中でも外でも、キッドはキッドで何も変わらなかった。それがローの恐怖心を取り除いてくれたのだ。
わんわんと大泣きしてしがみつき、今まで口にしたことのない心情も吐露した。あまつさえ、そのまま眠ってしまったのだから。
恥ずかしさに顔が赤くなる。今日の朝は瞼が腫れて大変だった。入浴する際に一生懸命直して事なきを得たのだ。
「ユースタス屋……」
──どうしよう。
別れは決まっているのに、キッドに対する思いは募るばかりだった。
*
毎日の日課のようにペンギンは下町までキッドを迎えに行き、待っていたシャチと屋敷の外で落ち合う。
そこで三人は逃避行の段取りを話し合っていた。
「今なら確かにローさんをさらって逃げられるけれど」
「それだけじゃ、後が厳しいだろ。おれらはまだ海に出たことはねぇんだ。海軍相手に逃げ続けるには、それなりの力が必要だ」
「そりゃもっともだけど……。力って?」
シャチは首を捻りながらキッドに答えを求めた。
「昨日話してただろ? 悪魔の実をいただくのさ」
「……えっ? ええっ!?」
「なるほど……。それはいい案だな」
驚くシャチの隣で、ペンギンは深く頷いていた。
『悪魔の実』を食すと、不思議な力が身体に宿ると言われている。ペンギンがそれを実際に目にしたことはないけれど、その力は強大であるという噂なら航海中に何度も聞いてきた。
「……売れば一億なんだろ? 食っちまうんだ?」
勇気あるなぁ、といったシャチの呟きに、キッドも実は少し「もったいない」という思いはあった。
でも、冷静に考えれば一億ベリーの金があったって、ローを守ることはできないのだ。
「今のおれに必要なのは金じゃなくて力だ」
「そうだな。おれも賛成だ」
「……じゃあ、どこにあるか、急いで探さないと」
「昨日の部屋をまず当たってみよう」
シャチとペンギンが続いて道を示してくれる。二人を誘ったのは正解だったなと、キッドは気付かれない程度の笑みを浮かべた。
「貴族や召使いたちは眠っているだろうけど、衛兵は起きているだろうな」
「そいつらはおれが黙らせるぞ」
「おれもやろう。シャチは部屋の中を物色してくれ」
「OK!」
暗い屋敷の裏庭を通って、勝手口と思しき扉を開ける。無用心にも鍵はかかっていなかった。
「おいおい。いいのかよ」
「貴族に手をかける者などいないって、油断してるんだろうな、きっと」
キッドの頭の中では考えられない話に、思わず顔を顰めて舌打ちもした。
「おれらには都合いいじゃん」
「まぁな」
昼間は奴隷として働かされているペンギンたちは、ある程度の屋敷内の構造を把握している。行ったことのない場所にあるとしたら厄介だが、昨晩貴族がいた部屋の周辺なら訪れたことがあった。
「おっと、さっそく見張りが……」
先頭を行くシャチが廊下の角に身を潜めて呟く。キッドもそっと覗き込んで確認をした。
「おれらはローさん付きの奴隷だって顔は知られているはず」
「おびき寄せてみるか」
シャチが飛び出して、衛兵たちに声をかけていた。
「すいません! 『猫』の様子がちょっとおかしいんです……!」
「なんだと!?」
単純にも引っかかった衛兵たちが、シャチの先導に続いて廊下を駆けてくる。
曲がり角に入ったところで、ペンギンとキッドで一瞬のうちに気絶させた。衛兵たちは声をあげる暇もなかっただろう。
「うはは、強ぇ……」
「丘の上なら負ける気はねぇんだがな」
しかし、海の上となると話は別だった。相手は軍艦なのだ。小さな船が立ち向かったところでひとたまりもない。
「急ごう。騒ぎになる前に片をつけたい」
ペンギンの提案にキッドは頷き、またシャチが先頭に立って廊下を進んでいった。階段を登り、突き当たりで見張りとやり合って、昨日の部屋へとたどり着いた。
またしても呆気なく開かれる扉。中は真っ暗で探し物をするには難しい状態だった。
「ランタンくらいならつけられるかな」
「それすらどこにあるのかわかんねぇぞ」
「しばらくすれば目が慣れると思うが……」
けれど悠長なことも言っていられない。三人で家捜しして探し出し、やっと一つの明かりを灯すことができた。
「よし、急ぐぞ」
念のためにキッドは扉の前に立ち、侵入者をかたっぱしから葬るつもりで仁王立ちしていた。
ペンギンとシャチの二人がタンスや机の引き出しを開けて、景気よく中身を散らかしていっている。
「……ないなぁ……」
「……よく探せよ」
「わかって……、あ、あれ? これかな? なんか、実みたいな形してる!」
思わず声を張り上げそうになったシャチに「しっ」と人差し指をあて、ペンギンは近付いていった。扉の前のキッドも誘われるように二人のそばへ寄って、シャチの手の中にあるものを覗き込んだ。
「確かに、なんかの実だな」
「こんなの、初めて見るよ」
「……どうする? 食べてみるか?」
ペンギンがじっと、キッドを見上げてくる。これが『悪魔の実』なのかは分からない。妙な形をした実を数秒見つめた後、キッドはそれを手に取った。
「他人事なのにドキドキするなぁ……」
「まだそうだと決まったわけじゃないさ……」
と、言いつつ、ペンギンも少し落ち着かない感じだった。
『悪魔の実』の能力者が誕生する瞬間を、目の前で見ることができるかもしれないのだ。心がワクワクとしてしまうのは無理からぬことだった。
ガブリ、とキッドは果肉に歯を立てる。パサついた実のほんの一欠けらを味わっただけでもう限界だった。
「……まず……!」
「ええっ? もしかして偽物だった!?」
「……おれも現物は初めて見るしなぁ……。どうだ? 何か変化はあったか?」
冷静なペンギンに尋ねられたキッドは、顔を顰めながら自分の掌を眺めてみる。それは反射的な行動で、掌に何かがあるといったわけではなかった。
けれど、軽く指を動かしただけで、机の上にあった文鎮がまるで磁石に吸い寄せられるようにキッドの掌の中に飛び込んできたのだ。
パシ、とやや慌ててそれを掴み、キッドは呆気に取られてしまった。ペンギンもシャチも、口をポカンと開けて収められた文鎮を見ていた。
「なにした!?」
「……何もしてねぇよ。指を動かしただけだ」
「文鎮だけってことは……、金属がキーかな? これはどうだ?」
またしても冷静なペンギンが、散らばる書類を掌に近づけてくる。紙はうんともすんとも言わなかった。
「じゃあ、これは?」
持っていたランタンを近づけた瞬間、それはペンギンの握った指越しにガタガタと揺れたのだ。