夜を駆けていく
「はぁ……、はい、平気です。あはは」
覚悟の上だったとはいえ、あまりにも想像どおりすぎて、シャチはつい笑ってしまった。鞭で打たれた箇所はじんじんと痛んだが、今はそれ以上に何もかもが滑稽だったのだ。
「……おれのせいで」
小さな声で呟かれたそれを耳ざとくキャッチして、シャチは笑いを引っ込めた。
「ローさんのせいなんかじゃありませんから」
「そうです。アイツは貧弱だけど打たれ強くもあるから、気に病むことはありません」
「てめー、ペンギン! 褒めてんだろうな、それ!」
目の前で漫才を始める二人が自分を気遣っていると百も承知で、ローはそのやりとりに対して笑ってみせた。
「ところで、外の景色は見えましたか?」
「あそこは港の近くだったから、見えても海くらいだったかもしんないけどね」
ペンギンはシャチの傷を診ながら聞き、ローのために自身を犠牲にした男は名誉の負傷に耐えながら明るく言った。
「……ああ、それなんだけど」
ローはそのときに経験した出来事を、二人に語ろうかどうかで少し悩んだ。まだ自分にもよく分からないことだったので、説明のしようがなかったのだ。
「なんです? 珍しいものでもありましたか?」
「珍しい……。確かに珍しい、というか初めてで」
「へぇ? なんです?」
ペンギンたちはむしろローの様子が珍しくて、怪我の治療もそこそこに注目していた。
ポッと頬を赤く染めて、モジモジと落ち着かない感じに腕を動かしている。
「……あそこで、誰かと目が合ったんだ」
「目?」
「いつもならすぐに逸らせるのに、あのときだけは目が離せなくて……。結局、そいつの顔しか記憶にないんだけど」
せっかくシャチが身体を張って作ってくれた貴重な時間だったのに、ローは人間と見つめ合うことだけしかできなかった。
それを思うと申し訳ない。でも、あの強烈な赤い色を忘れることができないでいる。
「何か気になる部分でもあったんですか?」
「……いや、そういう感じでもなくて。……上手く言えない。でも、忘れられない……」
頬を赤くしながら語るローに、ペンギンもシャチもポカンと口を開けていた。
──なぁ、まさか……。
──そのまさかじゃないかな……。
どうやらローは、誰かに一目惚れしたらしい。
青天の霹靂。
長いこと付き添ってきた二人だけれど、こんな姿のローは見たことがなかった。
まるで少女のように頬を染め、赤くなった顔を隠すように両手で覆っている。
頭上の獣の耳は伏せられ、尻の上から生えている長い尻尾はパタパタと落ち着きなく揺れていた。
ローは性別で言えば『雄』なのだが、貴族の命令によって、身にまとっている服はすべて女性ものだった。
黒いレースやらフリルやらが散りばめられた、ほぼ下着のような布地の少ない服装は、行く先々で割りと好評を博している。
ローを見に来た上流階級の男たちはだいたいが鼻の下を伸ばしているらしく、ローは「気持ち悪い」という遠慮のない感想をペンギンたちにこぼしていた。
それは同時に、ローの『人間嫌い』に拍車をかけることとなっていたから、彼が誰かに一目惚れをしたという事実は二人を驚愕させるのに十分だった。
「か、確認してもいいですか?」
「ん?」
「そいつの姿を鮮明に覚えています?」
「……うん」
「じゃあ、思い出すとどうなります?」
「ど、どうって……。心臓がなんか、うるさいっていうか、緊張しているときみてぇな感じになるかな」
想像した結果、自分が語ったとおりになったのか、ローは顔を抑えていた手を心臓の上へと運んでいた。握った拳をギュッと押し当てている。
──どうしよう、本当なんだ!
ペンギンはシャチと顔を見合わせ、目配せだけで会話を交わした。長いこと一緒にいるのは彼らも同じ。互いの考えることは言葉にしなくても分かるようになっていた。
「ローさん。今、一番何をしたいですか?」
「えっ?」
「遠慮しないで言ってよ。なんでも叶えるから」
二人は島へ上陸する前にそう誓ってあるのだ。
ローは二人の顔を交互に見つめた。落ち着きを取り戻した心臓から手を離して、少しだけうつむいてみせる。
ありがとう、と。その言葉を口にしないのは、二人から言わなくていいと止められているからだった。
「……もう一度、会いたい」
気恥ずかしいような感情に苛まれて小声になったが、ペンギンたちにはちゃんと届けられていた。
「了解です。そいつの特徴を教えてください。探してきますから」
ローから聞いた特徴を頭に刻み込み、ペンギンはもう夜も遅い時刻に屋敷を抜け出して丘の下を目指した。
シャチも行きたがったが、怪我をしたばかりだからと断り、ローのそばにいるよう言っておいた。
「ちぇ、探し物はおれのほうが得意なのに」
「元気になったら代わってくれ」
そう言うペンギンに、ニッと唇の端を持ち上げて笑いかけ、シャチは片手を上げる。
「んじゃ、任せたぞ」
「おう」
掌同士を打ち合う、パン、という小気味いい音が夜空の下で舞った。