夜を駆けていく
ペンギンもシャチも奴隷から解放されたことで、今まで一度も話さなかった『脱走』への思いを打ち明けることができた。
いつか必ずローを貴族の手から救い出すのだと、二人はそれだけを考えながら生きてきた。相手が相手だけに、旅先で目をかけた海賊に打ち明けても、なかなか首を縦に振ってもらえなかった。
歯がゆさと無力さに苛まれながらも諦めなかったこの十年の労力が、今やっと報われたのだ。
ユースタス・キッドを動かしたのは、結局のところローの力であるが、ペンギンとシャチの必死な願いも、スラムの悪ガキの心を揺さぶったことに違いはない。
「なにはともあれ、本当によかったよ」
「安心するのはまだ早ぇぞ。つか、これからが本番だろう?」
海軍に追われ続ける旅の始まりでもあるのだ。キッドは釘を刺しながらも、やはり夢の実現の前には顔が緩んでいってしまう。
「説得力ない顔してる。海に出ちゃったら、やることいっぱいで大変だよ」
「そうだな。最低限のことはできるんだろ? おれとシャチだけじゃ船は動かせないからな」
「ああ。港の漁師や船乗りに、基本的なことは聞いてあるさ。何回か漁船に乗せてもらったこともあるしな」
「そうか」
「……おれも何か手伝えればいいんだけどなぁ」
キッドの身体に掴まりながら、ローは三人の会話に加われないことを寂しく思っていた。
「いいんですよ、ローさんは!」
「そうです。十年もやりたくないことやらされてきたんです。しばらくはゆっくりと、身体と心を休ませてください」
ローのぼやきに対して、シャチもペンギンも大きく首を振って気にしないよう言ってきた。
「二人の言うとおりだぜ。お前の仕事は誰かに甘えることだな」
「なっ……、なんだよ、それ」
「あはは、いいこと言うじゃん! ユースタス屋」
「そうだな。見直したぞ」
「てめぇらなぁ!」
シャチとペンギンはどこまでもローの味方でしかなかった。船の上でもそれは変わらないのだろう。
不思議な共同体として、これから旅を続けることになる。どこまで行けるか分からないけれど、不確かな未来のことを今考えても意味はなかった。
「お前らは港へ先回りして、おれの仲間たちに説明しておいてくれないか。そこにキラーたちがいるんだ」
「分かった。お前は船の持ち主のところか?」
「ああ。昨日も言ったけど、コイツ借りるからな」
「おれ?」
キッドに軽く揺さぶられて、ローは驚いた。これからどこへ行って何をするのか、まだ聞いていないのだ。
「船をもらう条件が、お前を見せることなんだよ。悪ぃけど、ちょっと辛抱してくれ」
見世物のようなことをやらせるのは気が引けるけれど、今はなりふり構っている場合ではなかった。利用できる価値のあるものとは、優位に立てる武器でもあるのだから。
「客に会えばいいのか?」
「客じゃねぇけど……、とにかくお前を会わせれば船をもらえるって寸法だ。おれも一緒に行くからよ」
ピョコ、とローの耳が布の下でも動いた。
「ユースタス屋も? 分かった。行く」
途端に安心したように力を抜いて、キッドにもたれかかってくる。素直に甘える仕草にいくらかホッとして、キッドはポンポンと安心させるようにローの背中を叩いた。
*
「早かったな、小僧」
「ああ。なんか、面白いくらい順調に事が進んでな」
銜えていた葉巻は灰皿に戻し、スラムの大親分・ベッジはやってきたキッドと、キッドが腕に抱えている存在の両方へ目をやっていた。
白い布を被ったままのシルエットは人間のようだけれど、その下にある秘密とはなんなのか。ベッジの興味も尽きなかった。
「本当に持ってきたのか」
「約束は守るぜ。アンタも……だろ?」
「フフ、そいつは現物を見てからだ」
さすがにベッジは慎重だった。貴族のように欲に目が眩んでハメを外すような真似はしない。キッドは内心で舌打ちしつつも、ローに向けて言った。
「外すぞ、これ」
「うん」
軽やかな鈴の音の共に、頷かれる首。白い布が外されて現れた猫のような耳には、スラムのボスの目を見開かせるだけの意外性があった。
「……ほう。グランドラインにしかいない種族か?」
「さぁ? おれもそのへんは知らねぇ。ほら、もういいだろ、早く……」
気が急くキッドは、ベッジから返事を聞きだそうと促したけれど、それより先にローが口を開いていた。
「ユースタス屋に船をくれるんだって?」
船をくれる=いい人間、の図式が頭の中にできていたローは、ベッジに対して恐怖心や悪い印象を抱かなかった。
「ありがとう! あんたもいい人間なんだな!」
ここはスラム街。ましてや大親分ともなると、後ろ暗いことにも多く絡んできている。まかり間違っても『いい人間』なんて評価されることはない。ベッジの人生の中でも初めて耳にした言葉だった。
「……フフ、フフフ、おれがいい人間か、そうか」
「トラファルガー……」
キッドは額に手をやって顔を覆い、唸った。
「小僧。お前は港へ行って船の引き継ぎをしてこい。それが終わるまで、この猫さんはここで預かっておく」
「はぁ!?」
「なんだ? 船が欲しいんだろ?」
ベッジはキッドの弱みにつけこんでくる。
「ぐっ……! トラファルガー、すぐ戻ってくるからな!」
苦々しい思いでキッドはそれだけを言い、扉を開けて出て行こうとする。その背後に、
「おれ、トラファルガー・ローって言うんだ。あんたは?」
話をするときはまず自己紹介からと、教わったことを素直に実践しているローの明るい声が響いていた。
「頭目は昨日からお前に船をやることは了承済みだったんだ」
「そうなのか……」
スラム街から港へと続く細い道を、キッドはベッジの部下と共に歩いている。
ベッジは独自に船を持ち、他の島との貿易を交わしている商人でもあった。ただし、取引する物件はあまり一般的なものではないらしい。
キッドも詳しくは知らないが、そういう噂なら子供の頃から聞いてあった。
「頭目はお前のこと買ってたんだぜ? なのに島を出て行くとか」
「知るかよ。おれは誰の部下でもねぇ。好きにさせてもらうぜ」
ベッジの部下は軽く肩を竦めただけで、それ以上は何も言わなかった。
「ほら、あの船だ」
「……おおー……」
思わず、キッドの口から感嘆の声がもれた。夢に見続けた船が港に停泊している。あれが自分のものになるのだ。憧れの大海原は、本当にもうすぐそこにまで近付いていた。
「食糧などの必需品は揃っている。けど、一週間分ってとこだな。海に出てすぐ餓死しないよう、計画はきちんと練っておけよ」
「うっせぇな、わかってるよ」
相手の話など上の空でほとんど聞いていなかった。目の前に恋焦がれた船がある。夢の実現の前に平常心を保っていられるほど、キッドは冷めていないのだ。
「……まったく。ほら、ここにサインしろ。それで、その船はお前のものになる」
「おう!」
さらさらと走り書きのような乱暴なサインをし、キッドはペンを返した。
「汚ねぇ字だな……。まぁ、いい。よし、譲渡は完了だ。あとは好きに使え」
「ああ!」
貴族が乗ってきた巨大なガレオン船には劣るけれど、大勢の中間たちが乗り込んでも不自由ないくらいには大きな船だ。