夜を駆けていく
瞳を輝かせるキッドの耳に、自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「キッド。手に入ったのか?」
「キラー! ああ、この船はおれたちのものだぞ!」
「そうか……、ついに、やったな」
「夢が叶うんですね、キッドの頭」
キッドが港に現れるまで待っていたキラーや仲間たちが、続々と祝いの言葉を述べてくる。
まだ暗い夜の海は、まるで墨を流したように黒く不吉な印象でしかないのに、ここに船があるというだけで虹色に輝く架け橋が生まれたようだった。
「引継ぎは済んだんだな。じゃあ、船を出発させる準備に入ろう」
最後に顔を出したペンギンの言葉に頷き、キッドはすべてを任せることにした。船はペンギンとシャチの二人に託すのが一番だ。
「おれはトラファルガーを連れてくる」
「猫の名前か? おれたちはまだ会ったことがないな」
その姿を目にした瞬間からキッドの様子がおかしくなった──と、キラーは思っている──本人に、ようやく会えるのだ。
いったいどんな容姿をしているのか、キラーたちも純粋に興味があった。
「あんまりジロジロ見てやるなよ?」
ローの十年間を思うと、視線そのものが凶器となってしまうこともあるだろう。物珍しさは最初の一回だけで終わらせてくれと、キッドは釘を刺しておいた。
ベッジのところへ駆け出した背中を見送って、キラーはボソリと呟いた。
「ベタ惚れなんだな」
「そうだよー。もう、相思相愛って感じ」
キラーの呟きに相槌を打ったのは、シャチ。
「おれたちは願ったり叶ったりだから、何も文句はないよな」
ペンギンも続いて言う。
「ふぅん……。まぁ、キッドがそれでいいなら、おれも特に言うことはないな」
キッドもプライドが高い男ゆえに、なかなかベッジに頭を下げることができなかった。それさえできれば、本当は船だってもっと早く手に入れることが可能だったのだ。
ほんの数日前に貴族が興行に訪れたことで、キッドの周辺に大きな変化が現れた。最たるものが猫との出会いで、それによって自分たちも島を出て行くことができるようになったのだから、キラーは感謝する気持ちのほうが強いのだった。
「トラファ……!?」
大声を出そうとしたキッドを留めるように、ベッジの眼光が鋭く光っていた。
「寝ているだけだ。騒いで起こすなよ、小僧」
「……なんで?」
キッドはローがソファの上で丸くなって眠っている理由のほうを聞きたがった。
「単純に疲れてたんじゃねぇか? 服装を見ればおおよその見当はつく。まだ夜中だってこと、忘れてんじゃねぇぞ」
そういえばそうだった、と。キッドは夢が叶った興奮のあまり目が冴えて仕方がなかったけれど、肉体的にも精神的にも疲労が蓄積されているローにはきついはずだった。
「ソファが柔らかいことも知らないらしい。不思議がって感触を楽しんでいるうちに眠っちまってな」
ふと、ローがいた人力車の床は冷たいコンクリートだったことを思い出した。
一日の、いや人生の大半をあの中で過ごしてきたのだ。ベッジの話にキッドは沈痛な思いで、眠るローを見ていた。
「起こしちまうかな……」
なるべく静かに、キッドはローを抱え上げた。よほど疲れていたのか、持ち上げる際に起こる振動にも気付かないでローは熟睡している。
「じゃあな。世話になったな、いろいろと」
「ついに出て行くか、お前が。フフ、まぁいい。狂犬がいなくなったって、明日には下町が大騒ぎになるだろうよ」
「ハハッ、明るいニュースじゃねぇか」
いいことをしただろうと、キッドは笑ってやった。
「チビたちのこと、頼むな」
「それぐらいは引き受けてやるさ」
ベッジにしてみたら、将来の有望な跡取り、もしくは手下となってくれる可能性を秘めた宝と同じなのだ。子供を養うことは未来への投資だった。
窓を開けて下の通りに目をやると、ローを抱えたまま港へ走っていくキッドの姿がわずかに見えた。影はあっという間に角を折れて消えていく。
気が急いて仕方がないキッドの様子が目に浮かぶようで、ベッジは葉巻を銜えながらニヤリと唇の端を上げた。
*
「遅くなったか?」
「いや、まだ準備が終わるまで少しかかる」
船に着いたキッドはすぐにキラーへ問いかけ、状況の確認をする。腕に抱えられた存在に気付いたキラーがこちらへ近寄ってきた。
「これがそうなのか。へぇ……、なるほど確かに猫みたいだな」
さすがに物珍しそうにしながら、キラーはローの猫の耳をツンツンと指で突付いていた。触る場所といったら誰でも耳になるようで、キッドはかすかに笑う。
「ローさん!?」
保護者でもあるシャチが目ざとく見つけて駆け寄ってくるのを、寝ているだけだからと言って落ち着かせる。
「そっか……。あー、ベッドで寝かせてやりたいなー。でも柔らかいのは船長室にしかないんだよなぁ……」
意味深に伺いを立ててくるのに、キッドは断る理由がないので頷いてみせた。
「別に構わねぇよ」
なんで躊躇うんだと、逆に不思議なくらいだった。
「……わかってる? 船長室って要するにお前の部屋だぞ? お前、どこで寝るつもりなんだ? まさか一緒に寝る気?」
それはなんだか複雑だなぁと、シャチが言いよどむのに、キッドも初めてそこに気付いて動きを止めた。
「じゃあ、おれは別んとこに行けばいいだろ」
「船長が船長室から出て行ってどうする」
「そうなるよねぇ……」
キラーが呆れた声をあげるのに、シャチも困ったように首をかしげていた。
「……めんどくせぇな! じゃあ、一緒に寝ればいいだろ。おれは別に寝相は悪くねぇ!」
キッドの有無を言わさぬ声に、シャチもキラーも黙って彼らを見送った。
「……まぁ、平気かな。ローさんもわかってないだろうし」
「というか、あの猫はメスなのか?」
「……オスです」
マスクの下の視線が、シャチに突き刺さってくる。
「なら、別にいいんじゃないか?」
「うーん……。おれはまだちょっと複雑」
ローとは十年間を共にした間柄だ。運命共同体であり、家族でもある。要するに、数日前に知り合ったばかりのキッドに預けてしまうのがとても寂しいのだ。
「ああ、でも、ローさんの望みは叶えてやりたい。ああ、複雑!」
となりでブツブツ呟くシャチは、まるで娘を嫁にやる父親の心境を抱えているようだと、キラーはこっそり思っていた。
シャチが言ったように、船長室にあるベッドは柔らかかった。眠るローをそっと下ろし、ふかふかの綿の上へと沈ませる。
苦しそうな印象を与える首輪を外すと、軽やかな鈴の音が室内に鳴り響いた。
「……ん」
起こしてしまったかと、キッドは仕方なくローの目覚めを待った。もぞもぞと動いた顔がキッドを見つけ、そこで停止する。
「……ユースタス屋?」
「ああ」
「……あれ? おれ、カポネ屋と話してなかったっけ?」
目をゴシゴシこすりながら、ローは独り言のように呟いた。ようやく辺りの景色も変わっていることに気付いたのか、瞳がキョロキョロとさまよっている。
「船、もらえたんだな」
「わかるのか?」
「そりゃあ、海の上にいたことのほうが長いからなぁ」