夜を駆けていく
陸地にいるよりはむしろ慣れた感覚、であるらしい。ゆらゆらと揺れる船の上は、ずっと丘で過ごしてきたキッドにはまだ慣れないものだった。
「本当に一緒に行けるんだな……。夢みたいだ」
「夢じゃねぇよ。おれはもう夢を見続けることに飽きたんだ。だからこれは紛れもない現実さ、トラファルガー」
「うん……」
いまだ信じきれない心地でいるのは仕方のないことだとキッドも思っていた。
夢を見ることすらしなかったローは、急に変わった身の回りの出来事にただ引っ張られているだけの状態なのだ。
自分に降りかかった現実であると認識するまで、ローのペースを乱さないようにする必要があった。
「少し休めよ。まだ夜中なんだ。眠いだろ?」
「眠いけど……、ユースタス屋はどうすんだ?」
「出港の準備とか、まぁ、いろいろだ。夜明け前になったら起こしてやるから、今は休んどけ」
横たわったままのローの頭に手をやって、軽くなでる。猫の耳の毛並みは相変わらず気持ちがよかった。
特に何かを意識したわけではなく、キッドはごく自然とローのこめかみの辺りに軽いキスをしていた。
「……えっ」
それに動揺したのはローのほうだった。ボン、と顔が赤くなる。その赤くなった顔を見て、キッドも自分が何をしたのかに気がついて動揺する。
「あ、悪ぃ。なんか、つい」
キスをしたくなったのだ。決していやらしい気持ちからではなかった。ブンブンと、ローも枕の上で首を振っている。
「別に、いや、じゃねぇから……」
尻すぼみに小さくなっていく声。枕に顔を隠す仕草。そういえば、とキッドは今更思い出していた。
──コイツ、おれに一目惚れしたんだっけ。
出会いは港。人力車の中身を見ることができた、あのほんの数秒間がキッドの日常を変えたのだ。
考えれば考えるほど、不思議な気分になる。スラムの片隅で腐っていた日々はなんだったのかと歯噛みしたくなるほど、動き出してしまえばあっという間だった。
「なぁ、トラファルガー。全部、お前のお陰なんだ」
「……なにが?」
わずかにローの首が動いてキッドを見上げてくる。
「あの日、おれの前にお前が現れてくれなかったら、今もスラムでグダグダやってるだけだった」
何一つ動き出すものなどなく、海賊になる夢だけを頭の中に描いて、あらゆるものを呪って過ごしていただろう。
「こんな言い方、恥ずかしくて嫌いなんだがよ。なんだか運命みたいなものを感じるんだ」
「ユースタス屋」
「あそこでお前と出会わなきゃ、今のおれも存在しねぇ。お前がおれのこと好きにならなきゃ、この現実はなかった。そうだろ?」
ニヤリとした、人の悪い笑い方でローを見る。枕に顔を埋めた猫は眉根を寄せて、軽く睨みつけてきた。
キッドはローの反応に一通りの満足をしてから言った。
「トラファルガー。おれも、お前のことが好きだよ」
「……ユ……」
本当に驚いたように目を丸くして、ローは絶句してしまった。初めて抱える『好き』という感情に揺れまくっていたローは、告白された後をどうするかも知らないのだ。
いつも助けてくれたシャチもペンギンもいない。ローは顔を真っ赤にして目も泳がせていた。
「あっ……、その……」
「ん?」
「……えっと……」
ローは枕を抱え込んで、ベッドの上で上半身を起こしていた。何度も口を開こうとしては躊躇って閉じられる。キッドは焦らずに待った。
そして約数十秒の末に、待望の言葉が投げかけられたのだ。
「お、おれも、ユースタス屋のことが好きだ!」
勇気を振り絞って放たれたロー自身の言葉に、キッドは笑いかけながらその身体を抱き寄せた。
会話もコミュニケーションもままならなかったローが告白をするまでになったのだ。シャチとペンギンが知ったらどう思うだろう。
──あいつらは複雑かもしれないが。
動き出したものを止めるのは不可能だった。
ローの顎を取ってわずかに上向かせ、今度は唇同士を合わせるキスをする。ビク、と強張った身体から力が抜けるのに、いくらもかからなかった。
数秒間のキスが終わると、何かを言いたそうにしているローの身体を倒して、眠るように言い聞かせた。
「夜明けを一緒に見ようぜ」
「……夜明け」
今までは憂鬱でしかなかった朝の訪れに、ローは一瞬眉を顰めたが、今の自分の居場所を思い出してハッとする。
ここに貴族はいないのだ。
見世物になる嫌な仕事をしなくてもいいのだ。
これからはキッドも、ペンギンも、シャチもローのそばにいてくれるのだ。
「あ……」
今やっと、それを実感した。
「おれ、自由なんだ……」
ローがポツリと呟いた声に、キッドの小さな笑い声が被さってくる。
「そうさ。お前もやりたいことをやって、好きなように過ごせばいいんだ」
「うん」
「夢が叶って初めて迎える朝だ。記念によく見ておこうぜ」
「うん」
短く頷いて返事をする以外に、ローにできることはなかった。言葉が出てこないのだ。この十年の日々が怒涛の如く押し寄せてくる。辛かった記憶が消えるまでまだ少しかかるだろうけれど、これ以上増えることはない現実に涙があふれそうだった。
それを察してくれたのか、キッドは短い挨拶と共に部屋から出て行った。その背中を見送った後で、ローはほんの少しだけ枕を濡らした。
「出航準備、整ったそうです」
「よし」
ブレーンの報告に、キッドは一旦周りを見渡してから、高らかに宣言するように声を張り上げた。
「行くぞ、野郎ども! 大海原へ!」
「おおーっ!!」
「おれたちは今日から海賊だ! 海軍もライバルも蹴散らして最果てまで進むぞ!」
「おおーっ! キッドの頭ー!」
「待ってたぜー! このときをー!」
港に響き渡るほどの声、声、声。キッドを称える声に、元・スラム街の狂犬は歯を見せて笑う。
「出航だ!」
バッ、と帆が張られ、船はゆっくりと港を旅立っていく。舵を取るペンギンは夜の海を慎重に進めていった。
「地図があって助かるよ」
「カポネって人が用意してくれたんだろ? ありがたいよなぁ」
港の周辺は意外と障害が多く事故の元にもなる。ただでさえ暗い海を行くのだから、慎重を要して悪いことはない。
「入江を抜けちゃえば、あとは風に乗って進めるけどな」
「しかし、すごい騒ぎだったなー」
スラムの悪ガキたちの盛り上がりは半端じゃなかった。シャチは余所者ゆえに混ざることができず、輪の外から眺めては圧倒されていたのである。
「立場こそ違うけれど、あいつらも島を出たがっていたからなぁ。無理もないだろ」
「その気持ちはまぁ、わかるよね」
キッドたちも、シャチたちも求めていたのは自由だ。島から、奴隷から解放されるときをただ、ただ求めていた。
「そういえば、おれらの目的、まだ話してないな」
「ローさんが起きてからでいいだろ。ユースタスたちにも話さなきゃならないし、一緒のほうがいい」
「そうだね」
二人には一つ、やりたいことがあった。それはローにもまだ話していないことだから、かなり驚かせることになるかもしれない。
「なんとかなるといいな」
「希望は捨てない。こっちは十年かかったけど叶ったんだ」
もう一つの望みも、だからきっと叶うはずだと二人は強く思っていた。