夜を駆けていく
見つかることはないと、実はローは思っていたのだ。街の大きさなんて知らないが、少なくとも興行に訪れるくらいには多くの人が集まっている島なのだろう。そんな大勢の中からたった一人を見つけるなんて不可能だと考えていた。
「……あいつと……」
昨日見たあの顔を思い出して、自然と顔が赤くなっていくのを止められない。
「……本当にまた会えるのか?」
「それを交渉しに行くんです。今日すぐにってわけにはいかないかもしれませんが、粘り強く話しかけてみますから」
「……わかった」
檻の中でペタリと座り込み、ローは両手を頬に当てていた。緊張に震える身体、二人がいない寂しさに心も揺れている。シャチはローに近付いていった。
「一人にしてごめんね、ローさん。上手くいったら今日連れてくるから、何を話そうかとか戻るまでに考えておくといいですよ!」
「えっ!?」
ローは驚きすぎて、抱えていた寂しさや緊張なども全部吹き飛んでいた。
「は、話すって何を、だよ?」
「それを決めるのはローさんでしょ? 聞きたいこととかいろいろあるでしょう」
「……聞きたいこと」
突然言われても何も思い浮かばない。そもそもローは、シャチたち以外の人間とはまともに目を合わせたこともないのだ。世間話すらしたことのないローが、気の利いた会話なんてできるわけがなかった。
「じゃあ、二時間したら戻ってきます。上手くいってもダメでも必ず二時間後までには戻りますから」
「考えておいてくださいねー!」
「ま……!」
待て、という前に二人は身軽に生垣を飛び越えて、あっという間にいなくなってしまった。
檻の中に一人取り残されたローは、迫り来るタイムリミットを前に、早くも緊張で全身を強張らせていた。
*
「キッドの頭。昨日の奴が来たみたいです」
「通せ」
スラム街のもっとも海から近い区域にキッドたちの根城はある。早くここから出て行くのだという希望と戒めの意味も込めて、この場所を選んだのだ。
この城にスラムの住人以外が訪れるのは初めてのことだった。さて、連中の話とはどんなものなのか。キッドは期待と、その逆のパターンも併せて想像しながら待った。
開けられた扉の向こうから現れたのは、キッドたちともそう年齢の違わない感じの、まだ若い男が二人。
下っ端かという感想を抱き、さらに一人の男に見覚えがあったことに軽く驚いた。
「酒場でおれのことを尋ねていたそうだな」
同い年くらいという見た目のため、いくらか気安い感じになる。
「目的はなんだ?」
「話の前に人払いを頼んでもいいか? おれたちは丸腰だ。あんたらに敵意もない。ユースタス・キッド一人と話がしたい」
ペンギンの申し出に、当たり前だけど室内がざわめいていた。隣にいたシャチは雰囲気が変わるのを察してゴクリと唾を飲む。
悪い評判しか聞こえてこないと知っていたから、ローのためだと言い聞かせて気弱な心を奮い立たせている。
「キッド一人に、という理由はなんだ?」
「……内密な頼みごとだからだ。繰り返すが敵意はないし、おれらはそちらの大将より弱いよ、保証する」
おかしな保証を持ち込まれ、キラーはキッドを見た。どうする? という問いかけにキッドが悩んだのは一瞬だった。
「お前ら、ちょっと席を外せ」
「……了解」
キッドがそう言ったのは、見覚えのある男がいたからだ。キラーたちが部屋を出て行ったあとで、キッドは口を開いた。
「なぁ、そっちの奴。あのとき車の隣にいただろ? おれの前で派手に転びやがった」
「……! あ、ああ。なぁ、ペンギン。やっぱり」
「間違いないなさそうだな。一昨日、港で黒い布に覆われた、その中身を見たんだな?」
「ああ」
「そのとき、目が合った?」
「ああ」
「……もう一つ確認させてくれ。その姿を覚えている範囲で言えるか?」
それを答えていいのかキッドは逡巡したが、目の前の二人からは本当に敵意や殺気を感じられなかった。正直に答えても問題はないだろう。
「藍色の短い髪と、ブルーグレーの瞳、首に鈴がついてて、あとは……頭に猫みてぇな耳が生えてた」
キッドの答えに、二人は顔を見合わせて頷き合っている。交渉はここからがスタートだ。
口封じか、口止めか。どちらにしてもキッドは自分たちに有利となるよう、働きかけなければならない。
交渉はキラーたちのほうが得意だが、ノウハウ自体は聞いてあった。相手も相手だし、どうにでもなるだろうと思っていたキッドは大きく裏切られることになる。
やってきた男たちの要望は、なんとも意表をつくものだったのだ。
「単刀直入に言う。その人に会ってくれないか!」
「……はぁ?」
お願いします、と深々と頭まで下げられた。
キッドは予想外の展開に呆気にとられていた。
「……待て。口止めとか、口封じは?」
「は? ……ああ、あー、いや。それはないと思う」
「ない!?」
キッドは思わず声を強めに出してから舌打ちする。どういうことだと顔を顰めた。
「その件はコイツが鞭打ちの刑についたことで終わっている。あそこでアンタに見られても採算が取れると踏んだんだ。アンタに口止め料を支払うのもバカらしいだろうしな」
「……鞭打ち、だぁ?」
ギリ、と歯を鳴らすキッドに、シャチは頭を掻いて笑って見せた。
──なんで、ヘラヘラ笑っているんだコイツは!
よく分からない出来事が自分の目の前で展開されている気持ち悪さにキッドはイライラしたが、どうやら金が手に入る当てがなくなったことは理解できた。
──チッ。
あわよくば夢が叶えられるかもと思った未来は、あっけなく砕け散った。目の前の男二人では交渉する価値もない。大金など持っているはずがないと分かるからだ。
「そうか、金が欲しかったのか」
ペンギンと呼ばれていた男は、なかなか察しがいいらしい。うちのキラーみたいなもんかと、キッドは判断する。
「おれたちはあいにく無一文だからなぁ……。だからこうして頭を下げてお願いしにきたんだ。頼む。あの人に会ってくれないか? 一度でもいいんだ」
ペコリ、と二つの帽子がまた深々と下げられた。
「……」
キッドは一瞥をくれて、本当は断るつもりでいた。金にもならない話に協力する理由も意味もない。だいたいあの生き物に会って何をしろと言うのか──。
口を開きかけたキッドの頭の中によぎったものは、あのときの瞳。ブルーグレーの双眸が、ただじっとキッドだけを見つめていた。
──ああ、クソ!
「……つか、あれはなんなんだ? なんで檻の中にいるんだ? 獣なのか?」
断る前に話を聞いておくのも悪くない。キッドは自身に言い訳するように語りかけていた。
男二人は顔を見合わせている。その様子は困惑している感じだった。代表してペンギンが口を開いた。
「悪い。それは……答えられない。おれらが勝手にペラペラ話していいことなのか判断がつかない。……だから、それが知りたかったら一緒に来てもらえないかな?」
ペンギンは慎重な答え方をした。それはキッドに興味を持たせるための策ではなくて、ローを気遣ってのことだった。