夜を駆けていく
祈るかたちをした手
目の前にいる男と目を合わせることができない。今まで経験したことのない状態に、ローは本当に困り果てていた。
気持ちの上では男の目を見て、きちんとその姿も焼き付けておきたいと思うのに、どうしても顔を上げることができないのだ。
──せっかくまた会えたのに。会いたいと思っていたのに。
焦れば焦るほどローの思考は混乱し、こんな自分が恥ずかしくなってくる。
「ローさん、ほら、なんか、えっと、喋らないと」
檻の外から伸ばされたシャチの手に軽く腿の上を叩かれるが、ローはますます身を縮こまらせて蚊の鳴くような声で尋ねた。
「……なにを?」
「えっ!? ええっと、そうですね……。あ、そうだ、まずは自己紹介から始めたらどうです?」
「……じこしょうかいってなんだ?」
「ええっ!? えっと自分の名前とか、誕生日とか、好きなこととか? かな?」
シャチもまた焦っていた。ローにとってこれは一目惚れ、かつ初恋でもあるのだろう。
どうしたらいいのかが分からないのはどうしようもないことで、だからもどかしい思いはあっても慎重に、まずはローを落ち着かせることに気を割いていた。
目の前で繰り広げられるコメディを見ているペンギンとキッドは、ローたちとは違う意味で気まずい思いをしていた。
いくら鈍くても、これで気付かないほうがおかしい。恋愛経験なんてほぼゼロなキッドでも、自分がここに呼ばれた理由の察しならもうついていた。
──本当かよ。
猫にミミズ、ではなくて寝耳に水。思われて悪い気はしないが、相手が相手なだけにこちらもどうしたらいいのかが分からなかった。
コホン、とペンギンは咳払いをした。
「……だいたいの事情はわかったと思うけど」
「……」
「今日だけで構わないから、話し相手になってくれないか。なるべく優しく、な」
「……はぁ?」
なんという無茶ぶりだろう。そんなことを言われても困るというのがキッドの本音だった。
「待てよ、ちょっと目が会っただけだぞ?」
「あの人が人間に興味を抱くなんて初めてなんだよ。アンタのこと思い出すと胸が張り裂けそうになるんだって。だから責任とって相手してくれ」
「意味わかんねぇよ! ……つか、なんだよ、アイツやっぱり人間じゃねぇのか?」
「……うーん。初めての会話にしては少しハードルが高い気もするが、聞いてみたらどうだ?」
もしかしたら答えてくれるかもしれない。ローが本当にキッドのことを好きなら、自分のことを知ってもらいたいと思い、心が動く場合もあるだろう。
ペンギンにもはっきりしたことは言えないが、やってみる価値はあるような気がした。
ローから会話を切り出すのは不可能に思えたので、ペンギンはキッドをせっついた。このまま二人でお見合いを続けていても時間が無駄に過ぎていくだけである。
このときキッドは、自らの好奇心を深く嘆いていた。
──来るんじゃなかった。
まさかこんな面倒なことになるとは思わなかった。自分が謎の生き物に惚れられるくらい魅力的だとポジティブに考えられるほど、キッドは恋愛に精通しているわけではないのだ。
はぁ、と大きなため息をついたあとで、仕方なく檻の前へと一歩足を進めた。
今日だけでいいのなら、さっさと済ませて帰ろうと思ったのだ。
「おい」
「……!」
ビクッ、とローが上半身を震わせた。
「優しく!」
ペンギンに強く腕を叩かれて、キッドは思わず横を振り返っていた。スラム街で自分にこんなことをする怖いもの知らずはいない。
それは、彼らが本当に余所者なのだと客観的に認識した瞬間でもあった。キッドがどれだけ恐れられているのか、この連中はまったく知らないのだろう。
──へぇ……。
それはどことなく面白いと感じさせることだった。
早く出て行きたいと思っていた島に訪れた未知なる新しい刺激。妙な出会いから生まれた縁というものを、もう少し楽しんでみるのもいいかもしれない。
「……なぁ、お前、ローっていうのか?」
ペンギンたちがそう呼んでいた名前を本人に尋ねてみると、檻の中の生き物は猫のような耳をピンと逆立てて背筋も伸ばしていた。その際に、首についている鈴が何回か音を立てた。
じっと、ブルーグレーの双眸がキッドを見つめてくる。初対面のときと違い、いくらか戸惑ったような色をたたえた瞳は、近くにいる男へと向けられていた。
助けを求めるような視線に、シャチは隠すことなくフォローを入れる。
「名前を聞かれてますから、答えてあげないと」
「な、なまえ……。あ……、……ト……」
ゴニョゴニョゴニョ……。
うんと小声で囁かれた音は、残念ながらキッドの耳にまでは届かなかった。
「あぁ?」
聞こえないと大声をあげたキッドは、またしてもペンギンに叩かれていた。
「優しく!」
「……」
新鮮なツッコミも、さすがに何度も食らうと腹が立ってくる。けれど猫を怯えさせているのは事実だったので、今は自分のほうが悪いのだろう。
キッドはボリボリと頭を掻きながら、さらにもう一歩前へと近付いた。檻とキッドの距離は30センチほどにまでなった。
「……悪ぃ。聞こえなかったからもう一度言ってくれ」
猫の双眸がまた見つめてくるが、今度は先ほどよりもいくらか柔らかい印象になっている。
惑う心を隠しもしないでいる無防備さと赤く染まる頬を前にして、キッドも不思議なほど気分が穏やかになるのを感じていた。何度か唇が動いたあとで、猫が思い切ったように口を開いた。
「トラファルガー・ロー」
ローはそうやって声に出してから、ふと、最後に自分の名前を口にしたのはいつだったかを考えた。思い出すこともないくらい昔の記憶すぎて、急に寂しさにも似た切ない感情に支配される。
そんな中に、キッドの声が響いた。
「へぇ、いい名前だな」
「……えっ?」
何を言われたのかが一瞬分からなくて、ローはキョトンとしてしまった。ツンツンと、シャチが腿を叩いてくる。
「なんだ?」
「ほら、ローさんもアイツの名前を聞いたらどうです?」
「えっ? あ、あっ、名前! 名前、教えてくれ!」
もっともなことを言われて、ローは慌てたように尋ねた。どんなことでもいいから情報が欲しい。ローがこんな風に誰かのことを知りたいと思ったのは、本当に初めてなのだ。
ドキドキと心臓がうるさいのは変わらないけれど、会話らしきものは成立している。それが、徐々にローの心を落ち着かせていった。
「おれは、ユースタス・キッドだ」
「ユースタス・キッド……」
ローは無意識のうちに声に出して反芻していた。それは宝物のように大事なものとして、記憶の中枢の奥にしまわれる。
「……ユースタス屋か……」
「はぁ?」
「あ、それ、ローさんのクセみたいなもんだから」
キッドの疑問の声に、ペンギンが後ろからフォローを入れてくる。
「クセ……?」
「貴族が客に対してよくなんとか屋、なんとか屋って呼ぶらしくて、だからそれが正しい呼び方だと思っているみたいなんだよ」
「客……」
ふと、立ちこめていた柔らかい空気を遮るように、キッドはローたちがここへ来た理由を思い出していた。