夜を駆けていく
この界隈に住む上流階級の連中が大金を支払って珍しい生き物であるローを見に来るのだと、噂ではそう聞き及んでいる。
女性用の下着にも似た服を着せられている意味を理解できないほどキッドは子供ではないし、また、綺麗な場所で生きてきたわけでもなかった。
「お前、客にはただ見られるだけで終わるのか?」
「えっ?」
「本当はそれ以上のことを求められたりしてんじゃねぇだろうな?」
「……それ以上? あっ、触ったりとかか?」
小首をかしげながら話すローに、キッドは「まさか」という嫌な予感を覚えて冷や汗を流した。
「おれに触れるのは禁止ってことになってる。話すのはできるけど、おれはほとんど無視してるから……」
よく分かっていないながらも、懸命にローは話した。貴族や客の言葉は無視し続けてきたが、キッドの言葉、声、質問などは一つも聞き漏らさないよう耳を傾けていた。
けれどキッドは、近くにいるペンギンとばかりよく会話を交わしている。小声で話しているため、ローには何を話しているのか、まったく分からなかった。
しゅん、と気持ちが沈んでいってしまう、その理由とはなんなのだろう。ローは膝の上に置かれた、白く長い毛で覆われた布をギュッと握り締めていた。
そのキッドがどうしてペンギンに首を向けたかというと。
「おい……。ずいぶんと中身がお綺麗だな!」
「……あー、まぁ、誰もそういうことを教えてないのかもなぁ……。貴族も客には触らせないんなら、そっちで儲けるつもりはないんだろうし」
「胸クソ悪ぃこと言うな!」
「ごめん。……でもそこだけは感謝だな、本当に」
世の中には脂ぎった視線でローのような容姿を持つものを見る輩も多いだろう。ひょっとしたら客の中にもそういう連中がいたのかもしれない。
そういえばローも「気持ち悪い」と話していたから、意味は分からなくとも嫌な気分は覚えていたのだ。
ペンギンはふと、感心したようにキッドを見つめた。
「おれにもわかることだけど、ああいう場所では身を売ることなんて普通だろう? でもアンタは嫌いなんだな」
「おれは仲間には絶対やるなって言ってある。身体を売って金を手に入れるくらいなら、嫌いな大人の財布を狙えってな」
「ハハ、なるほど」
もちろんそれも褒められた行為ではないけれど、キッドが金を必要としている理由なら分かったような気がした。
──ふぅん。
見た目や噂だけでは不安だったけれど、この男ならローと二人きりにしても問題はなさそうだ。もう少し慣れてきたら、シャチと一緒にこの場を離れようとペンギンは思っていた。
「ローさん、落ち込まなくても大丈夫だよ」
「……そうか?」
ひそひそと小声で会話を続けるキッドとペンギンの二人をじっと見つめるローを気遣って、シャチは声をかけた。
ペンギンのことを責めるに責められないだけに──内容の察しがついたから──困る部分はあったけれど。
「ユースタス屋の奴は、ローさんがあんまり綺麗すぎてビックリしちゃったんだよ」
「……はぁ? おれのどこが綺麗なんだよ」
と、ますますうつむいていく顔を見ていられなくて、シャチは慌てたように膝の上に置かれたローの手を取って強く握った。
「違いますって。外見とか、あ、いや、外見だっておれからしたら十分整ってますし、身体のことでもなくて、中身が綺麗だなーって話なんですよ」
「……?」
分からない、とローの首がかしげられる。
「えーっと、困ったな……。あっ、ほら、おれじゃなくてアイツと喋らないと」
ようやく話が終わったのか、キッドがローの正面に向き直っていた。
「悪ぃ……。さっきおれが言ったことは忘れてくれ」
「なんでだ?」
ローは一つも聞き漏らしたくない気持ちでいるのにと、また落ち込みそうになる。
「お前にする話じゃなかったってことだよ。いいから忘れてくれ。お願いだ」
「……わかった」
キッドにそう言われた以上、仕方がないからローは忘れようと思った。
「なぁ? お前から聞きたいこととかねぇの?」
「えっ?」
「いや、おれから聞くと根掘り葉掘り、お前のことを聞くばかりになっちまうからよ」
またよからぬことを尋ねてしまいそうで、キッドは困っていたのだ。ローの正体について等、本当はすごく聞きたかったけれど、それで相手を傷つけるようなことになったらと思うと、やや躊躇ってしまうのだった。
ローはキッドが知るどんな人間とも違っている。
スラム育ちのキッドには、スラムの常識以外に関する知識が薄いのだ。
それは今まで経験したことのない壁にぶつかったのと同じだった。
──どうすればいいんだ!
キッドもまたローと同じような悩みを抱え込んでいた。
「ユースタス屋はおれのことを知りたいのか?」
悩むキッドの頭上に、檻の中から声がかかる。車輪の分だけ少し高い位置にいるローとは、自然とキッドが見上げる格好になる。
「……ああ」
ローを見上げながら珍しいくらい遠慮がちにキッドが答えると、檻の中の身体が少し前に傾いていた。
「たとえば、どんな?」
チリン、という軽やかな鈴の音と共に身を乗り出してきたローの表情は明るい。それはどんなことでも答えようとしている気持ちの表れだった。
キッドは本当にまだ信じられないような感情を抱きながらも、目の前の生き物が自分を慕っていることに素直な喜びを覚えていた。
それどころか、かわいいな、なんて柄にもないことを思っていたりする。
──あいつらに知られたら、驚かれるどころじゃ済まねぇだろうな……。
幼馴染や仲間たちの顔を頭の中に浮かべながら、キッドは少しだけ苦笑する感じに話した。
「お前の正体とか、素性とか、かな。ああ、そうだ。お前、男でいいんだよな?」
着ているものはさておき、骨格は華奢ではあるが男のものだと分かる。ハッとしたようにローは自分の衣装に手をやって、今更ながら隠す仕草をした。
「こ、これは、その……、命令で……」
「ああ、わかってるよ」
彼ら三人は貴族の奴隷であると、ペンギンから聞いている。詳しい事情は話さなくていいと、キッドは遮っておいた。
──奴隷、か……。
想像もしなかった現実に触れて戸惑った心も、ローたちがそれほど悲壮感を漂わせてないせいで、つい忘れそうになってしまう。
ローは衣装にやっていた手を元に戻していた。
「……えっと、おれの正体? だっけ?」
話を戻してくるローに、キッドは曖昧に頷いた。聞いてもいいことなのか悩んだけれど、案外気にした風でもなくローは答えてくれた。
「おれは『ミンク族』っていう種族の生き物だ」
「……ミンク族? そんなのもいるのか」
キッドはしみじみと頷きながら、世の中の広さを感じ入っていた。奴隷という負の部分も、初めて知った種族の存在も、これから海へ出たいと思っている身には強烈な刺激となって突き刺さってくる。
「ユースタス屋は人間だよな?」
「ああ」
パッと、ローの顔がほころんでいった。
「おれ、人間のいい奴なんてシャチとペンギンしか知らなかったから……、よかった」
『よかった』という言葉の中にはどんな意味が含まれているのか、キッドはすべてを理解できたわけではなかった。