夜を駆けていく
「……おれのことをいい奴だなんて言う変わり者はお前くらいだぞ」
スラム街のキッドと言えば、スラムだけではなく下町でも恐れられている。その悪名に恥じないだけの悪いことも十分行ってきたから、自分でも笑ってしまうようなローの言葉だった。
ブルーグレーの瞳はキョトンとしている。余所者にはまったくピンと来ないのだろう。
「ユースタス屋は悪い奴なのか?」
「悪いことばっかりしてきたからな」
金のために、食うために、生きるために、キッドは何人もの人を襲ってきた。天国になんぞ行く気もないから別に構わないが、地獄の釜の蓋はキッドのことを今から待ちわびているはずだ。
「ふぅん……。でも、おれには何もしてねぇし。だからユースタス屋は悪い奴じゃないよ」
「ハハ……、おかしな奴だな、お前」
キッドが何をしてきたかなんて、ローにはどうでもいいことだった。
奴隷として貴族に飼われるようになってから、もう十年以上になる。そういうローにとって、貴族以上に悪い感情を抱かせる存在などいないのだ。
気に入らないというだけで鞭打たれ、口汚く罵られる。けれどそれはまだいいほうだった。これまでにいったい何人の奴隷たちが、貴族の手に掛かって命を落としていっただろう。
ローは諸悪が何かを知っている。知らないことのほうがたくさんあるけれど、本質を見抜く力は誰よりも優れていた。
キッドの話す『悪いこと』は、貴族の振るう鞭とは種類が違うことをちゃんと理解しているのだ。
「おかしいか、おれは? おれは自分が変なのかどうかよくわからねぇんだ……。ペンギンたちはそういうこと絶対言わねぇし……。あ、でも外見は確かに変だよな」
「別におかしいってことはねぇよ」
「そう? みんな珍しそうに見ていくけど」
ローは自分の耳に手をやって軽く触ってみた。頭上に生えた獣のような耳と、長い尻尾。この二つがあるせいで、一族は絶えず人間に狙われ続けてきた。
捕らわれて『人間屋』に売られ、オークションにかけられることもある。『ミンク族』は人間よりも希少価値が高いから取引価格が上がるのだ。
「……それ、やっぱり本物なんだよなぁ?」
「触ってみるか?」
ローは檻の端まで来るとやや身をかがめて、鉄の棒の間から耳を出してみた。
貴族相手にも決して自分から触らせたことなどなかったのに、キッドに対してなら進んで歩み寄れる。しかも不快な感情など微塵もなかった。
ピョコ、と飛び出した三角形に、キッドは純粋なもの珍しさから飛びついていた。
「……おおー、すげぇ」
毛の質は思ったよりも柔らかく、なでると気持ちがいい。スラムにいる野良猫のことを、キッドは反射的に思い出していた。
「なんか、くすぐってぇな」
「あ、悪ぃ」
キッドは慌てて手を引っ込めようとしたが、ローは檻の中でフルフルと首を振っていた。
「全然。むしろもっと触ってほしいような……。ハハ、変なこと言ってる」
自分の発言に、自分で笑って、ローは軽く肩を竦めてみせた。はにかんだような笑い方が妙にかわいらしく思えて、キッドはつい視線を逸らしてしまった。
──なに考えてんだ、おれは!
調子が狂うなと、ボリボリと頭を掻く。いつの間にかペンギンとシャチの二人が消えていたことに、キッドはこの時点でようやく気がついた。
「あの二人は?」
「ペンギンたちなら少し前に離れていったよ。近くにはいると思うけど……」
何故だか少し悲しそうに眉を下げながら、呼ぶか? とローは聞いてくる。
「いや。つか、それは望んでねぇだろ……」
あの二人の頭の中はローのことしかない。そう断言できるくらい行動も言動も一致している。わざわざ邪魔者となるために戻ってくるわけがなかった。
「あの二人とはいつも一緒にいるのか?」
忠犬の如く付き従う様は、キッドから見ても見事だと思うのだ。
「島にいるときは夜だけだけど。移動中の船の中はずっと一緒だな。ペンギンもシャチもすごくいい奴だから、おれのそばにいさせてくれって貴族に言ったんだよ」
「へぇ……」
なるほど、と理解した。恐らくあの二人はローに恩義を感じているのだ。貴族に仕えるのとローに仕えるのとでは、気分もやりがいも雲泥の差なのだろう。
──鞭で打ってくるような奴に仕えたいとは思わねぇよな。
理解できる感覚に、キッドは一つ頷いた。
「お前ら、いつまでこの島にいるんだ?」
ローの表情が目に見えて暗いものになった。
「貴族は十日って言ってたから……」
「じゃあ、あと八日ってとこか」
最後の日はこの島を旅立つことになるだろうから、実質では一週間といったところだ。
ローがキッドに会えるのはあと七日間。それも、キッドが会いに行くことで可能となる条件付きだ。
ペンギンが今日だけでいいと言った意味が分かった気がする。変に気を持たせるよりは一日限りの夢で終わらせたほうがいいという、それは配慮でもあるのだ。
だが、この猫の気持ちはどうなのだろうか。
「トラファルガー」
ビクン、とローの身体が緊張したように真っ直ぐになっている。その瞳が驚いたように少しだけ見開かれていた。
「えっ……、な、なに?」
「お前、おれにしてほしいことがあったら言え。叶えてやる」
「……」
さらに大きくなった瞳が、マジマジとキッドを見つめてくる。また戸惑ったように動いた手が、胸の前で組み合わされていた。
その祈るようなポーズで、けれどローは小さく首を横に振ったのだ。
「おい、遠慮なんか……」
「違う。……そうだな、ユースタス屋がずっと元気でいてくれたらそれでいいよ。今日はわざわざ来てくれてありがと、な。すげぇ、楽しかった」
ニッコリと、まるでこれが今生の別れだと言わんばかりにローは微笑んでみせた。