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かみきりむしのゆびきり

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これ以上関わっちゃいけない、と無言の制止に、けれどもユーリはその場を動いてくれなかった。彼が額に青筋を浮かべているのに気付いているのか、いないのか。男は更に言った。『可愛いね。君達なら、きっとたくさんのお金が稼げるよ』そう笑い掛けて、差し伸べられた手を彼が引っ叩いた。それが、合図だった。『走れ!』握った手をもう一度引くと、彼は黙って付いて来た。
右に左にと角を曲がり、大人では通るのが難しい路地へと飛び込んでようやく立ち止まる。ぜえぜえと乱れた呼吸を整える間も、ユーリは酷く不機嫌そうにしていた。
『あんにゃ、ろ……だれ、がっ……女だっ、つの……』
『髪……だけ、見たら……仕方ないよ……。それより、多分あの男の人、ハンクスさんの言ってた……』
『ああ、だろうな』
はっきりと、彼は口にした。――人買いだ。
下町には今も昔も、貧しい人間の弱みに付け込んで人の命を金で売り買いする輩が訪れる。特に子どもは高値で取り引きされるようで、僕らもうんざりする程言い聞かされていた。知らない大人には付いて行くな、お金をくれると言う大人は信用するなと、何度も何度も。相手の話に頷いたが最後、下町には一生戻れず、貴族の召使として過ごすだの、魔術の実験台にされるだの、身体中を切り刻んで髪の毛一本残らず売り飛ばされるだのと脅されて、眠れなくなったことさえある。
もし、力尽くで連れ去られていたらと考えると身の震えが止まらず、立ち竦む僕とは対照的にユーリは凛と佇んでいた。瞋恚の炎を瞳に宿し、チッと舌打ちをして。
『二度と来るなってんだ』
確かにこの時、僕は恐怖を感じた。彼は彼で心底怒っていたし、暫くはふとした時に思い出して不安に駆られるだろう出来事ではあった。
「ですが、僕もユーリも人買いに遭遇するのは初めてではありませんでしたし、犬に噛まれた時と同じで、その時は怖くてもすぐに忘れるようなことだと、思っていました」
下町は平和だけれど、毎日が賑やかで騒がしかった。
加えて子どもだった僕らは、朝から晩まで下町中を駆けずり回って遊んでいたから、こんなちっぽけな不安は日々の記憶に埋もれて消えてしまうだろうと考えていた。
下町に新たな命が誕生したのは、数日後のことだ。
まだ首の据わらない赤ん坊を恐る恐る抱いた僕らは、実際、人買いのことなどすっかり忘れていたのだ。少なくとも、僕はまるっきり忘れてしまっていた。
「その翌日か、翌々日でした。出産した母親の方が酷い熱を出したんです。
いわゆる産褥熱でしたが、医者を呼ぼうにも診療費が工面出来ず、大人達は頭を悩ませていました。医者は市民街の方でしたが、前金がなければ診てもらえなかったんです。……下町の人間は、お金がないと知っていますから」
祝賀ムードから一転、浅い呼吸を繰り返す妻を前に夫は途方に暮れ、他の大人達は質に入れるものがないかと家中を漁り、僕らは赤ん坊の子守りを任されたもののただならぬ雰囲気にお互い顔を曇らせていた。
『……だいじょうぶかな』
『……さあな』
『この子、生まれたばかりなのに……お母さんがいなくなっちゃうなんてこと、ないよね……?』
『………………』
『ユーリ?』
何も言わず、すっくと立ち上がった彼は部屋の扉に手を掛けた。『ちょっと、出てくる』と背を向けた彼に『待ってよ。赤ちゃん、僕だけに押し付ける気?』と僕は呼び止めたけど、ユーリは振り向こうともしなかった。
『すぐ戻る』
そう言い残して出て行ってから暫く、ユーリは戻らなかった。やっぱり僕に押し付ける気だったんじゃないか――…そう思い込んで腹を立てていた僕も、何処まで行ったのかと心配になるまで戻って来なかった。
窓の外は僕の心に同調するかのように暗雲が立ち込め、雨が降り始めた。ぽつぽつと水滴が石畳を打つ音。その音に混じって聞こえた足音に、僕は俯いていた顔を上げる。良かった、戻って来た。身勝手な怒りは何処へやら、嬉々として出迎えた僕の前に現れたのは、
「……市民街の医者でした。ユーリではないことに僕は落胆しましたが、ようやく医者を呼べたのだと知って、安堵もしました。けれど、大人達は皆驚いて、慌てふためいている。誰が呼んだのだと口々に言っていました」
「え……っ…………まさか、」
「その、まさかです。お金が足りず、呼びたくても呼べなかった医者は『黒髪の子どもに呼ばれた』と言って、入って来ました」
それを聞いた瞬間、僕の仕事は子守りではなくなった。
『フレン、ユーリは』下町に暮らす黒髪の子どもは、ユーリだけではなかった。しかし、市民街まで出向いて下町の人間以外と話をする度胸があるような子どもは、ユーリ位しかいなかった。『あのバカをとっ捕まえとくれ。見付けたら、すぐここへ連れて来るんだ。いいね?』少し前からいないことを告げると、そう命じられたので僕は雨の町へと飛び出した。いつも競争していた坂道や、子どもにしか使えない抜け道、僕らだけが知る秘密の場所まで歩き回って、見付からなくて、泣きべそを掻きながらふと思い至って戻ったのは、産婆の家ではなく、ユーリが当時世話になっていた家の彼の寝床だった。
薄っぺらい布団とシーツの白の間に、ひょっこりと覗く黒い頭を見た時の安堵感は、先程、待ち望んでいた医者が現れた時のそれとは比べ物にならなかった。
『……ユーリ』
ホッとして、けれど同時に再び腹が立ってきて、つかつかと踵を鳴らして歩み寄った僕は、ベッドの一歩手前でそれに気が付いた。雨に降られたのだろう、彼の黒い髪は小さな雫を毛先から滴らせ、耳や頬を濡らしていた。
『ユー、リ……!?』
腰や背中ではない。枕は濡らしているが布団は濡らしていない。違和感に、肌に貼り付くその髪を手で掬って、絶句した。

「彼が五年近く伸ばし続けていた髪の毛は、耳の下でバッサリと切り落とされていました」

抓んでも、梳いても。然程重みはなく、指の間から擦り抜けてしまう髪にぞわりと全身が粟立った。何が僕を戦慄させたのかは未だに分からない。触れた髪の冷たさにか、あるべきものがないことへの驚愕にか、失われたものへの哀惜にか。短くなった髪の毛は何度掬い上げても、カタカタと震える手の平からパラパラと落ちてしまう。
愕然と立ち尽くしていると、彼は程なくして起き上がった。『ぅん……』寝返りを打つと丁度こちらを見上げる姿勢になって、『フレ、ン……?』寝惚け眼が僕を映した。ぱちくりと瞬かれる紫水晶の眼は、いつもと変わりなくて、そのことが妙に苦しかった。姿はこんなに変わってしまっているのに、ユーリ自身が平然としているのが癪だった。何故だか悔しかった。やるせなかった。
『……はよ。アンナの具合、ちったあ良くなったか?』
『……どうして』
『は?』
『髪だよ! その、髪……!』
乱暴に手櫛を入れると、ユーリはああ、と素っ気なく、何でもない風を装って答えた。
『さっき、ランプの火で少し焼いちまったから。そこだけ短いってのもカッコ悪いだろ』
今ではしれっと嘘を吐く彼も、昔はとんでもなく嘘が下手だった。目を逸らして言う彼に、眉間の皺が増えるのが分かった。
『……だから、全部切っ』
『嘘だね』
きっぱりと切り捨てて、たじろぐ彼の眼を覗き込んだ。