踊りませんか次の駅まで
座席はスカスカに空いているのにもかかわらず、栄口はドアへともたれかかって面白くもなんともない景色を見ていた。景色というのは間違いなのかもしれない、これはただの鈍い色をした線の集合体でしかない。
明日も仕事があるからと、あれからすぐ水谷の部屋を出て、何かに急かされるように最寄りの駅から電車に乗った。別に早く切り上げる理由もなかったのだが、長居をするのは水谷が下した決断にそぐわない気がして早々と退散した。
ふと栄口は唇を噛み、水谷の感触を思い出してみる。若気の至りで済まさる年齢ってどれくらいだろうか。せめて二十代前半までか? 無駄に二十九歳まで来てしまったから、もうそこへはずいぶんな距離がある気がした。それに、あの頃とは違って何も知らないわけじゃない。
厚い窓ガラスはあやふやに車内を反射し、栄口の冴えない表情ですらぼんやりと浮かし出す。中吊り広告には週刊誌の『勢いで会社を辞めた人のその後』という下品な見出しがでかでかと踊っている。
(……大きなお世話だっつの)
栄口は一度会社を辞めている。自分がやりたいと思っていた業種の、希望していた会社に就職できたはずなのに、思うようにできたことなんてひとつもなかった。元々自己評価が低く、同僚にあたる人が自分へ露骨につらく当たってくるのもあって、意図の見えない悪意に弱い栄口は日に日に消耗していった。
給湯室を通りかかった時聞いてしまった、「みんなでいつ辞めるか賭けていたが、こう長く続けられるとつまらない」という噂話は結局自分に対するものだったのかどうかは確かではない。スケープゴートならスケープゴートなりに割り切って、おいしいお肉になれればよかったのだが、その時には既に道化に徹する気力も残っていなかった。
でかい会社ででかい仕事をしている自分をかっこいいと思っていた。やりたかった仕事から離れたくなかった。けれど心のダムはいつも決壊寸前だった。すると悪意に慣れることができるほど強くない性格へと矛先が向き、栄口は毎日無能な自分を責めた。でも大体はわかっていたことだった。自分はどんなに仕事が忙しくても辞めたりするたちではなく、人間関係で悩むタイプだと。そうわかっていてもどうにもできないのだけれど。
あの頃も通勤には電車を使っていたが、思い詰めれば詰めるほどプラットホームの黄色い線がスタートラインに見え、電車の警笛も、到来を告げる耳障りなベルも、駅員の声も、すべて『よーいドン』の合図をされているように思えた。
結局その会社は、「電車を待つ人の他愛もない話し声が自分への中傷に聞こえる程度」で辞めた。一年半もよくがんばったが、もうボロ雑巾のように擦り切れてしまったのは確かだった。
次の就職先を考えられる余裕があるうちに辞めればよかった。色々探してみたけれど、前と同じ職種、同じ待遇が受けられる会社はほとんどなく、あっても一年程度しかキャリアのない栄口は門前払いだった。それに、働けるならどこでもいいのに、また同じ目に遭うのかと思うと足がすくんで動けなかった。ごたごたしているうちに付き合っていた彼女とも別れ、一気に自分の価値が無くなってしまった気がした。
作品名:踊りませんか次の駅まで 作家名:さはら