狭間で揺れる
帝人にとって有益な人間と認識されていたのは分かる。むしろ臨也が望んで仕向けたのだ、そうであってくれなくては困る。続く騒動、離れていく人間たち、その中で臨也は、臨也だけは帝人の傍にあり続けると認識させた。他でもない、離れていくように仕向けたのが臨也だと認識させないままに。
帝人は臨也の信者ではない。だが、依存しているようになっていたのは確かだ。それを心地よく思い、駒として面白く成長していく彼の生きざまは臨也を楽しませてくれた。なのに。
「予想外だよ。こんなところで君が離脱するなんて」
帝人は倒れ、目覚めない。
見下ろす臨也の眼下で帝人は眠り続ける。
「ねえ、起きろよ帝人くん。こんなところで離脱してもらっちゃ面白くないんだ」
這わせた手にも、彼はなにも応えない。
「やっとこれから面白くなって来たのにさ、君がそこにいないなんて――」
困る。確かに駒はある。だが、臨也が整えた盤上には竜ヶ峰帝人という駒が必要なのだ。普段ならば壊れたならば挿げ替えればいいと思うだけだった。だが、今回は。今回はだめなのだ。帝人でなければ困る。無色をカラーとする群衆の長、彼がどう反応してくれるかが見たいのだ。混乱を彩るものとして。
見たい。見たい。だから起きて。起きろよ。
子供のわがままを繰り返す臨也は、はた目から見ればさぞや滑稽だろう。だがそれでも認められないと臨也の何かが叫ぶ。この子どもが沈黙し続けるのは、認めないと。困るのだ、彼がそこにいてくれないと。そこにいて、笑って、嘆いて、泣いて、それでまた立ちあがって―――そこまで行きついて、臨也は帝人の頬に落ちたものに気づく。
「あ、れ?」
戸惑う声とともにぽたり、ぽたりと滴が落ちる。帝人の僅かな呼吸も、繋がれた機器の電子音も、落ちる点滴の音さえも聞こえそうな中で、ぽたり、と帝人の頬を濡らすもの。
「なんで、」
ひくり、と心なしか喉が引きつる。それさえ構わぬと臨也は繰り返す。
「っ、起きろよ」
起きろ、起きろと繰り返される言葉に帝人が応えることは無い。起きていたならばきっと目を丸くしただろう。ああ、それとも笑っただろうか。折原臨也が懇願する様など滅多に見られるものではない。
どちらにせよ、君の反応が見たい。
「ねえ、起きてよ帝人くん。だってさ、君のいない世界は、」
何一つ変わらない。人一人いなくなったところで変わらず世界は回る。大多数の人間にとっては悲劇が起きようと奇跡が起きようと対岸の火事。気には止めるがやがてそれらは必ず薄れていく。それだけのものだ。
だけれど。当事者にとっては違う。
「つまらないんだ」
だから、起きて。
呟かれた言葉は雫と共に落ちる。ぽたり、と落ちた場所は瞼。吸い込まれるように縁を伝い――ゆるゆると、開かれた。
「い、ざや、さん……?」
か細い声。嗄れた喉で紡がれた声は微か。それでもその声を聞き間違うことなどない。
「なん、泣い、て、」
「……あんまり、君が起きるのが遅いからだよ」
夜の闇の中でも、窓から光が落ちている。月が明るく輝く夜、そういえば今日は19年に一度の月が最も地球に近付いている夜だと言われていたことを思い出す。ぽたりと雫がまた落ちて臨也は自重する。無様だろう、他の誰かに見せられたものではない姿。だが帝人はぱちぱちと瞬きをして、掠れた声で苦笑した。
「それは、すみ、ません、」
「……謝るなよ」
どちらかと言えば謝るのは臨也の方だ。だが帝人は緩く首を振る。
「心配を、おかけしました」
「本当にね。今度からはしないで欲しいな」
「善処は、してみます」
しないと明言しない帝人に僅かに眉根を寄せれば、ふふと彼は笑う。こちらの疑問を全て見透かしたかのような帝人の姿はなんだか面白くない。
「困るんだよねぇ。本当に困る。君が倒れられると俺は困るんだよ。面白くないじゃないか。せっかく色々してあげようと思っていたのにさ。全くもって台無しだよ」
「そんな、勝手な」
「うん勝手。だからさ、もう怪我なんてしないでよ」
心配でおちおち策も練れやしないじゃないか、と心中で付け足す。この二日間、臨也としては意外なほどに頭も策も回らなかった。波江のおかげで通常業務に支障はそれほどなかったとはいえ、たっぷりと嫌味を言われたことは忘れていない。
ああそうだ。認めよう。これほどまでに竜ヶ峰帝人に固執した理由。今も胸の内でくすぶり続ける感情。
いとしいいとしいと叫ぶこの想い。
「ようやく起きてくれて嬉しいよ。おはよう、帝人くん」
夜ですけど、とかすれた声で呟く声にいいじゃないと返して臨也は微笑む。
窓から漏れる月光が美しい。伸ばした指先で髪を梳けば心地よさそうに目を細める彼が愛しい。不意に古典的とも取れる逸話を思い出すが、今ならば素直に彼らの言葉にも頷けそうな気がする。彼の文豪たちが想像した、外つ国の言葉。
日付はとうに翌日を迎えた。未だ夜は深く、日が昇る時刻は遠い。だがそれこそ自分たちにはふさわしいと思う。日の下もいいが、彼の二面性を思えばこそ。
「……誕生日、おめでとう」
しってたんですか、と呟く声に俺を誰だと思ってるのと返して臨也は微笑む。帰ってきてくれてありがとう。盤上へと戻ってきてくれて感謝するよ、と声なき声で。
思惑も策略もある。だが今は、胸に沸き上がるあたたかな感情のままに、この子を愛でていようか。
折原臨也らしからぬと自分でもわかる思考をしながら、ありがとうございますと微笑う子どもの頭を撫でた。
再び眠りに落ちようとする彼は次に起きた時質問に答えてくれるだろうか、と詮無いことを考えながら、臨也は笑う。おそらく、その答え次第ではこれからがまた違ったものになるだろうという予測を抱いて。
それも悪くない、と思うあたりで今日の日にふさわしい。眠りにつくこの子が生まれた日に、新たな自分が生まれゆく。