狭間で揺れる
「俗説によれば生死の境を彷徨った人間はそんな夢を見るらしいけど、君もその口なのかな?」
「どうでしょうね……でも、そうだったとしても不思議じゃないですね。あまり体験したくない類ではありますけど」
「ふふ、帝人くんもこればっかりは、ねえ。君の望む非日常でも特に自らの生死に直結してるからかな。まあ、俺もこれは遠慮したいけど」
早々体験したいものでもないしねと嘯く情報屋は言葉と裏腹に楽しそうで、帝人は僅かに首を傾げる。だが臨也が表情と釣り合わない言動をするのはいつものことだ。疑問をまあいいかと流して続きを待った。
ここが病室だということを忘れるような、穏やかな空気。黒ではなく、白を纏った折原臨也。これも十分に非日常だ。
そんな場合ではないというのに僅かに楽しさを見出してしまうあたり、帝人は懲りていないのだろう。幼馴染が知ったら激怒して乗り込んできそうなものだが。
そこまで考えて、今度は僅かに思考が沈む。
――ああ、そうか。
僅かに納得した。この空間には似合わない、沈んだ思考。
(淋しかったのかも、しれない)
ぽつりと胸の内に落ちた言葉が正解のような気がする。
折しも今日は春休み。学校は長期休暇の真っ最中。誰が怪我をしようとも学校の友人たちは知る由もなく、それは同じクラス委員の彼女や幼馴染の親友だって同様だ。
誰よりも近しかった正臣が離れている。親元から出てきて一人暮らしを営んでいる帝人は上京してから孤独には慣れ始めていたが、ホームシックにならなかったのは過去を共有し傍に在る彼がいたからだ。
その正臣が、離れて。杏里とも、どこか疎遠になり。
大切だといえる人たちが次々と離れていくのを、帝人は何もできずに見ていた。
何が悪かったのだろう。帝人は考える。幾度も幾度も繰り返す選択肢、そこにあるもしもの可能性を考えないわけではないが、どちらにせよ帝人はこの道しか選べなかったのだろう。帝人が帝人である限り。
変質していく周囲と自分に取り残されたような気がして、取り戻すために足掻いて。いい加減疲れ果ててきたことを自覚し、それでも立ち止まれないと思っていた時だった。帝人が刺されたのは。
今、隣でナイフを弄びながら林檎を切る男。普段愛用しているものではないことに安堵しながら帝人は流れるような手つきで剥かれる皮を目で追った。
くるくる、くるくると流れていく赤い皮は瞬く間に終わりを告げ、はい、と皿の上に綺麗に切り分けられた林檎が鎮座する。自身も口に運びながら臨也は笑った。
「でもさ、君も物好きだね。猫のために自分を譲るなんて」
「……いいじゃないですか、本当に可愛かったんだから」
たとえ夢だとしても覚えている。やわらかな毛並み、温かさ。傍にいてくれることにどれほど心強かったか。
そう言ってむくれれば、拗ねないでよと彼は苦笑する。
「まあアニマルセラピーもあるくらいだし。そういう小動物に対する有用性は認めないでもないよ? まあ俺は人間が好きだからどうでもいいけど」
「臨也さんらしい答えですね」
「ま、夢だとしてもそれが本当に猫かはわからないしね」
夢は人間の深層心理、夢占いもあるくらいだしと告げる臨也に苦笑した。確かにそれもあるかもしれない。誰かに傍にいてもらいたいと思っているのだろう。だとしたら、と考えるとあの猫の姿は容易に誰かを連想させる。
目の前で含み笑いをする臨也も気付いているのだろう。ニヤニヤとした性質の悪い笑みを浮かべる男に趣味が悪いと溜息をつく。
臨也の性癖だけではなく、それをどこかで許容している自分にもだ。
折原臨也に関しての噂も、評価も、十分すぎるほどに手に入れている。面と向かって関わるなと忠告されたことも一度や二度ではない。それでも臨也の近くにいたのは帝人の意思に他ならない。
ダラーズに関する有用性もある。彼に裏があるということもわかっている。なにかの思惑なしに新宿の情報屋が一高校生を気にするわけがない。
だが、それ以上に。
いつからか帝人は、この男に親近感を抱いていた。
接する態度が年上から年下への気遣いをみせた、ということもあるだろう。正臣の強引さに慣れた帝人はそういった振舞いを拒絶しながらも受け入れる。
離れて行く人々の中で、唯一最初から傍にいた相手だということも大きい。思惑も承知だがそれ以上に手放しがたいと思っていた。こちらを駒にする気なら、この人はおそらく離れていかないだろうと無意識に確信していた。
それがあの夢だとしたら。
そう考えると、苦笑しか出てこない。表に出す気は今のところないが。
「……どうしたの? 茶色くなるよ」
「すみません、頂きます」
差し出される林檎を摘みながら苦笑する帝人に、臨也は僅かに首を傾げる。さらりと揺れる黒髪と浮きだった造作に本当、美形は得だなと内心で思いながら。
しゃりしゃりと林檎を食すことに夢中になっていた帝人は、ふと向けられる視線に気づく。人間観察を趣味と公言してはばからない男がじっとこちらを見つめている。
「……あの、なんですか」
正直、食べている姿をそう見られたいものでもない。多少の居心地の悪さを感じながら問いかければ、「ああ、うん、」と楽しそうに臨也は返す。
「美味しそうに食べるなって」
「そりゃ、美味しいですけど。実際果物なんて久しぶりですし」
「……俺が言うのもなんだけどさ、もうちょっと良い物食べなよ」
幾ら貧乏って言ったって洒落になんないよ?と真顔で呟く臨也にほっといてくださいと返して帝人は再び林檎を咀嚼する。蜜の入り具合もいいし、美味しい林檎だ。誰が見舞いに持って来てくれたのかはわからないが、相手がわかったならば礼を言わなければ。
一切れ食べきってごちそうさまでしたと頭を下げれば、お粗末様と言いながら臨也はベッドサイドにある棚の上に皿を置いた。結局茶色になってしまうがいいのだろうか。もっと食べればいいのにと臨也は言うが、それほど一気に食べれない。だが美味しい林檎だったので茶色くなったとしても後で食べようと思う。
なんとなしにぼうっとすれば、眠い?と傍らからあやすような声がかかる。
「……少しは」
「遠慮しないで眠ればいいのに」
「臨也さんを放って一人で寝れないですよ」
暗に何をされるかわからないということだが。だがそれは彼には訪問者を放っておくなど、という意味に捉えられたらしかった。
「心配性だなあ、こんな時ぐらい律儀なのも考えものだよ? 相応に、不満なら甘えればいいのに」
「……甘やかしてくれるんですか?」
意外だ。彼は釣った魚に餌は適度にやるものだと思っていたが。自分に対しては多分に多いものと思う。それともこれが彼なりの餌のやり方なんだろうか。
襲う睡魔に耐えながら、ゆっくりと瞼を開閉していると殊更に臨也の苦笑は顕著になる。いいから寝てろって。囁く吐息が子守唄のようで、ゆるゆると眠りに誘われる。傾ぐ体に手を添えられ、布団の中へと戻された。
まるで子どもにする行動に苦笑が漏れるが、あえて受け入れる。気遣われるのはどこか気恥ずかしく、人との接触に無意識に飢えていた帝人にとっては心地よい。