覚悟のススメ
「兄上から準備は順調だとの便りは頂いておりますが、まだ正式な日取りなどは決まっていないとのことで……私、花殿を姉上とお呼び出来る日がいつ来るのかと、もう楽しみで楽しみで仕方がないのです!」
「え?あ、えーと」
あいつは、その事についてほとんど何も言わない。それはあいつがこの世界における婚儀の事について、ほとんど何も知らないって所為もあるんだろうし、あいつの為に特に誂えた花嫁衣装が出来あがった時なんかは大喜びしてたので、俺との婚儀を楽しみにしてない訳ではないのだろうけれど、そんなのを一々気にするのも恩着せがましいかと思うとついつい腰が引けて、今まで何ともかんともあいつの真意を確かめられなかったのだ。
それで、これはあいつの気持ちを確かめる良い機会かもしれない、とついつい俺が部屋の中の会話に耳を澄ませてみれば、しかし俺様の期待とは裏腹に、あいつはなんとも妙な調子で歯切れ悪く、まるで困ったみたいに笑ったのだった。
「準備……は、どうなってるのかな。ほとんど仲謀と子敬さんがやってくれてるからよくわかんなくてっていうか、なんて言うか……」
「……花殿?」
びくりと引き攣った俺様の背中に同調するような怪訝な声で、尚香が花を呼んだ。
呼ばれた花は後ろ姿でも丸解りなぐらい肩を落として盛大な息をついてから、やおら背筋を伸ばしてまっすぐに尚香を見やる。
「――……あのね、尚香さん」
「はい」
「今更こういうこと言うのもどうかと思うんだけど……私たぶん、孫家のお嫁さん、にはなれないと思う」
そうして続いた台詞には、尚香も、勿論流石の俺様も絶句するしかなかった。
ちょっと待て。今あいつなんつった?つーか何か俺今幻聴でも聞いたか。あいつが俺の……孫家の嫁にはなれない、とか聞こえた気がするんだが。
「え、花殿?それはどう言う……まさか兄上と何か?」
「違う違う。仲謀は優しいよ。すごく大事にしてくれてる」
「そ、れなら何故そんなことを言われるのです?私も兄上も、花殿を一族に迎える日をとても楽しみにしてますのに」
「うん、それは知ってる。知ってるし、解ってるんだけど……でも、ね」
そう思ったのは尚香も同じだったんだろう。少しの間を置いてから慌てたように聞き返した尚香の声がそう尋ねれば、花の声もやっぱり慌てたようにそんなことを返して、そして。
「……仲謀がね。すごく大変そうなの」
やっぱりすごく困ったような笑い方で、後ろ姿の花はほんの少し笑った、ようだった。
「なんかね、私との婚儀のことについて凄くたくさん周りの人から色々言われてるみたいで……その所為でお仕事があんまり進まないみたいでね。おかげで最近は夜中までずっと仕事してて。子敬さんは、私が気にする事は何もないって言ってくれてるんだけどでも、やっぱりその……色々と聞こえてきちゃう事はあるから」
孫家は名家だ。江東を、この揚州を三代に渡って治めて来た重みのある家柄だ。
だから体裁や名誉なんてものを重んじる五月蠅い親戚が多い。そんでもって、そう言う奴らが「孫家に相応の家格を持たない」「どこから来たのか出自も怪しい」花のことを何て言ってるか、知らない俺でもない。
けどそんなのは最初から覚悟の上のことだ。少なくとも花を嫁にしよう、と心に決めた時から俺には知れ切っていたことで、だからそう言うものとは俺が戦っていけばいいと思っていたし、実際そうして来たつもりだった。
「ほんとは、すぐに解る筈の事なんだけどね。何か特別な後ろ盾があるわけじゃないし、おまけに何処の誰とも解らない私が仲謀のお嫁さんになるって、ほんとはすごく大変なことなんだって。それで何か最近色々考えちゃって……考えてもどうしようもない事なんだけど」
しかしそれでも抑えきれない噂の芽、というものはある。そういうものは摘んでも摘んでも後から後から生えてきて、完全に抑えることなど出来やしない。
だからそういう小さな刺を持つ悪意の噂が花の耳に届く可能性、というものはあるだろう、と思っていた。それと同時に、まあ例えそんな噂が花の耳にほんのちょっと届いたとしても、あいつなら、花なら大丈夫だろう、とも思っていた。
なんてったって俺が生涯の嫁と定めた女なだけあって、花は強い。ちょっとやそっとのことじゃへこたれないし、打たれ強いし、負けん気だってある。
だから、あいつならそんなものに負けないで居てくれる。きっと大丈夫だろう、と思っていたのに。
「だからね?もし本当に、あんまり大変なようだったら別に結婚なんかしなくてもいいって、取り返しがつかないことになるまえにやめておこうって、私から仲謀に言った方がいいのかなぁって……実は最近、ちょっと思ってるんだ」
「花殿……」
そうして、やっぱり困った風に微笑んだ声の花が言って、尚香が慰めるよう花を呼んでしまえば俺の我慢も限界だった。
「テメェ、こら花ぁッ!!!」
「ちゅ、仲謀!?」
「兄上!」
断わりもなしに扉を開ける。勢いのままずかずかと尚香の部屋に乗り込めば、がたっと椅子を引いて立ち上がった花と目が合った。
睨み返せばひるんだ視線が、次の瞬間床に落ちる。次いできゅっと唇を引き結んで後ずさろうとする仕草に、何でそこで逃げるんだよ。
俺は大股にあいつに近づいて、がしっとばかりにその細い肩を両手で掴み、強引に体ごと此方へと向き直させる。
「おっまっえっは……!!黙って聞いてりゃなんだそれは!!」
「黙って聞いてればって、立ち聞きしてたの?そんな」
「うるせぇ!黙れ!」
怒鳴れば非難がましい視線が俺を見たが、正直そんなことに構っちゃいられない。おろおろと一触即発な俺と花を見比べた尚香が、おそらく事態を収拾できる誰かを呼びに行く為に慌てて部屋を出て行くのにも、見ない振りをする。
構っていられないだろう。よりによって婚約破棄なんて、そんな大問題を目の前にしたら。
「何が『孫家の嫁にはなれない』だ!お前が俺と結婚すりゃ、お前は嫌でも孫家の、この孫仲謀様の嫁になるんだ!お前がどう思おうが知ったことか!!」
「知った事かって、それ、私には関係ないってこと!?」
「当たり前だ!身分だの家柄だの、今更おまえに関係あるか!」
「か、関係あるに決まってるじゃん!!私と仲謀のことなんだよ!?関係なんか大ありだよ!!」
喚いて喚き返されて、もう一度怒鳴ればカっとあいつの頬に血が上った。
俯いていた顎が、ぐいと上がって俺を睨む。思い切り眉を潜めた顔と強い光の宿った視線が完璧に怒っていて、ああそう、これだこれ。
瞬間の煌めきに、喧嘩の最中にも関わらずついつい見惚れてしまうんだから、惚れた弱みってのは正直怖い。
「私だって自分が仲謀に相応しくないなんて思ってないよ!でも仲謀は私にとってはただの仲謀だけど、周りの人にとっては違うんだもの、しょうがないじゃない!!」
こいつが元居た所には、身分の差なんてものはないのだと言う。
なので、花は家柄だのなんだのと言うしがらみなんてほとんど知らないし、知らないからこそ関係なく振舞う。
勿論、そんなものに縛られるような生き方だってしてこなかったから、だから。