植物系男子
その7
酔っ払ったシズちゃんはものの見事に何も覚えていなかった。俺が世話してやったのだと笑って言えば眉を寄せて、きもちわりィとだけ呟いた。チクリと針で刺されたような痛みをかき消すように、俺はまたはははと機嫌良さそうに笑った。
それから仕事で池袋を、ひいては東京を出ることになった。あまりシズちゃんの顔が見たくないときだったから、抜群のタイミングだった。ほんの少し居なくなると言っても、静雄はふーんと返すばかりで目を合わせようともしなかった。
最近は、なんだか昔とは違う理由でシズちゃんが腹立たしい。苛々する前に、俺は荷物を手に彼の部屋を出た。
出かけていたのは数週間。正確に言えば2週間と3日。勝手に作った合鍵でドアを開け、久しぶりに戻ってきたとき、彼はいつかのようにキッチンで晩飯を作っていた。
「シズちゃん、ただいま」
コンロの前に立つ彼へそう声をかければ、振り向いた彼は面倒臭そうに顔を顰めるだけだった。
相変わらずだなぁ、なんて呟いて俺は部屋を見渡す。特に変わったものはなかった。俺の私物も、出てったときと同じように鎮座している。つまらない、と思ったところで、ふと目に付いたものがある。
「…シズちゃん、あれ」
「あ?」
ナポリタンを盛り付けていた静雄がこちらを向いた。俺は彼にも見えるようにリビングを、正確にはテレビの上にあるものを指差した。
「でかくなってない?」
示した先にあるのは、ただのサボテン。あれは俺が初めてここにやってきたときからあったもので、おおかたシズちゃんが買ったか、誰かに貰いでもしたのだろう。こう見えてシズちゃんは自然が好きで、高校のときも人知れず花壇のパンジーを眺めていたのを知っている。
「…気のせいだろ。世話してねーんだし」
「そうかな」
疑問に思ってそのサボテンを手にした。緑の身体に深い溝が刻まれており、輪切りにしたら星型にでもなりそうだ。そして周りには、白く鋭いトゲがいくつも生えていた。世話していないと言った彼の言葉通り、表面には薄っすらと埃が溜まってる。
しかし俺が最後に目にしたとき、これは一回り小さかった気がする。伊達に情報屋をやってるわけじゃなく、こういった観察眼には自信があった。
奇妙に思い、とりあえずサイズを控えておくことにした。サボテンにメジャーを当てる俺に、シズちゃんは何も言わなかった。
翌日改めて測りなおすと、恐ろしいことに1センチ延びていた。サボテンとはこうも生育するものなのだろうか。確か竹などは1日に100センチ延びるなんて聞いたことがあるが、植物自体に興味がない俺は詳しいことはわからない。気持ちが悪いのを我慢して図り続けると、日ごとにバラツキがあった。ある時は数ミリしか成長せず、またあるときは数センチ延びることもある。何かに左右されているのだろうか。
「このサボテン、どうしたの」
「買った」
「どこで?」
「池袋」
「いつ?」
「忘れた」
シズちゃんはいつものようにテレビを見たまま答えた。俺は手にしたサボテンを置くと、パソコンへと向かう。池袋と限定されているのなら話が早い。
だが、いくら情報網を駆使しても店を割り出すことは叶わなかった。結局池袋中の花屋や園芸店から確率の高いところをはじき出し、自分の足で見て回った。あの平和島静雄が買いに来たのなら、池袋の人間なら忘れることはないだろう。聞き込んでみるも、全くそんな手がかりは出てこない。
夜も遅くなった時分、サボテンひとつに一体何をやっているのかと暗い空を見上げて息をついた。シズちゃんが関わると、いつもペースが崩される。
最後の一軒を回ったがそこも外れ。振り出しに戻った俺は、取りあえず帰ることにした。池袋中を歩き回ったせいでくたびれた。がちゃりと鍵を開ける。
「ただいま」
言っても返事はなかった。リビングを見れば、テーブルの上で静雄が寿司を食べていた。露西亜寿司の出前だろうか。急に覚えた飢餓感に、そういえば今日何も食べていないことを思い出す。
「俺のぶんは?」
「は?」
ちょうどマグロを口に運ぼうとしたシズちゃんが俺を見る。
「なんで手前のぶんがあんだよ」
「お腹空いたんだけど」
「知るか。いるなら先に言っとけ」
カチンと、頭の隅で火打石が打ち付けられた気がした。おかしい。今日はなんだか、虫の居所が悪すぎる。
「シズちゃんて、いつもそうだよね」
彼は自ら動かない。料理を作るのですら、俺が言わないとひとりぶんしか作らない。例えそこに俺が居ても。
一度火がつくと日頃溜まった鬱憤が溢れ出てきた。いつも俺ばかりだ。シズちゃんは何もしてくれない。
ただいまも、おかえりも、行ってきますも、おはようも、おやすみだって毎日言うのに、一度も返してくれたことがない。俺が何かしなければ、彼は話しかけて来る事もない。俺ばかりが馬鹿みたいに必死になって、気を引いて、構って、こんなに、こんなにしてるのに。
きっと俺がいてもいなくても、彼の生活に変わりはないのだ。
俺はなんだろう。俺はここにいるのか。ちゃんと彼に見えているのか。
「シズちゃんてさぁ、俺のことどう思ってんの?」
引き攣った笑いになる。声が震えた気がしたのを、拳を握り締めて耐えた。
静雄はじっと俺を見上げた。あの感情の読めない目で。俺はそれが、大嫌いだ。
「…どうでもいいだろ、手前のことなんか」
溜息混じりに告げられた言葉に、カッと頭に血が昇るのが自分でもわかった。
気が付けば俺はテーブルを蹴飛ばしてた。床に叩きつけられた寿司が無残な姿になる。思わず立ち上がった静雄が、ギロリと睨みつけてきた。
「手前ェ…」
低くドスの聞いた声ですら懐かしいのに、こんなときでも彼からは嫌悪はあれど怒りは感じられない。
その程度なのだ。俺はシズちゃんにこうやって無理やり嫌われることしか出来ない。それ以外は、全くの役立たずだ。
ははは、と乾いた笑いが起きた。止まらなくなって、腹を抱えた。
愚かなことをしている。怒りに任せて物に当たるなど、まるで昔の静雄みたいだ。いつの間に俺の方が怪物になったのだろう。
恐ろしい。自分で自分を制御できない自分が、怖くてたまらなかった。
ピタリと、笑いが止まる。もういいや。いろいろと、疲れた。
最後に、散々になった部屋で立ち尽くす彼を見上げる。今まで一度も言ったことがない言葉を口にした。
「さよなら、シズちゃん」
言うや否や、俺は逃げるように飛び出した。名前を呼ばれたのは、気のせいだと思うことにした。