風邪引きの恋
簡易な食事程度なら作れそうな狭い台所は、一つ口のコンロと、
太ももほどまでしかない背の低い冷蔵庫が備え付けられていた。
寮母の食事に間に合わなかったらここで適当に何か作るのだろう、
そう考えながらぼんやりと冷蔵庫を開ける。
青白い光が漏れ、俺の周囲をほんのり明るくした。
満杯だったらどうしたものか。林檎はそれなりに日持ちするから、常温でもいいかもしれない。
そんな俺のゆるい考えを他所に、俺の目に入ったのは食材ではなく、
掌サイズの冷えた氷嚢と、1Lの緑茶のペットボトルだけだった。
嫌な予感がする。
もしかしてあいつは、きちんと飯を食っていないんじゃないだろうか。
他の場所を見回しても、食べ物らしい食べ物はない。
馬鹿げてる。これじゃあ良くなるどころか悪化する一方じゃないか。
流し台の水桶に林檎を袋ごと投げ込むと、俺は急いで寝室へとって返した。
「才次、才次起きろ!この馬鹿ッ!」
勢いのままベッドで丸まる才次を揺り起こし、開口一番怒鳴りつけてしまった。
状況の飲み込めていない才次は目を見開いたまま固まっている。
「お前、朝何か食ったか!昼は!?」
何も言えないままぶんぶんと首を横に振る才次を確認して、
俺は威勢よく頭が痛くなるのを感じた。
なんで何も食べていないんだ、こいつは。そんなに具合が悪いなら病院に行かないか。
才次の肩を掴んだままがっくりと項垂れると、才次は絞り出すような声で
「なんで一郎太がおんの」と珍しく訛った物言いをした。
「何で、って…心配だったからに決まってるだろう。
三日も学校休まれりゃ誰だって気になるさ」
「でも、」
「いい、いい。ちょっとおとなしくしてろ」
まだ何か言いたげな才次を制してもう一度横に寝かせて、
借りる、と一声かけてまた台所へと帰った。
流し台の下を開けると案の定食器が幾ばくか綺麗に並んでいる。
その中から適当なサイズの皿を選び、先程水桶に投げ込んだ林檎をビニル袋から取り出した。
三つ入りの中から一番色つやの良いものがどれか見比べてから、
タイルにかけられた小さなナイフを借りて、健康そうな林檎に宛がう。
しばらくの間、俺と林檎の格闘が始まった。
こう言ってはなんだが俺は生まれつき不器用で、
特にこういった手先を使う料理めいたことが昔から苦手だった。
テレビなどでよく見る、林檎を回転させて皮を剥くというのは現実に可能なのだろうか。
試してみたくなって林檎の肌にナイフを食い込ませてみたが、
実際は鈍い音を立てて実に刃がめり込んだだけで、
皮を剥くという行為には到底至らなかった。
仕方なくナイフを抜く。縦に皮を削ぐ方法で解決としよう。
こうすれば手を怪我する心配もないし、一番まともに剥けるだろう。
そうこうしている内、時折寝室から小さな咳が聞こえてくるようになった。
起こしてしまったから、咳が出始めたんだろう。
それでも何か腹に入れてもらわねば困るから、乱暴に起こしたことはすまないと思うが、
起こしたこと自体は申し訳なくは思わない。
寮母は才次が風邪を引いていることを知っているようだったが、
食事を持ってきてはくれなかったのだろうか。
寮母はあくまで管理者であるだけで、そういった世話はしてくれないのかもしれない。
そうだとすると、病気は自己責任なのか。
隣人達はどうしていたのだろう。
母性の塊のような源王や、割りとお節介な蛇丸先輩あたりは
才次が何も食べていないと知るやいそいそと何か与えそうであるのに。
というか、ずっとそばについていると言っていた風魔は一体何をしていたんだ?
まさか本気で隣にいただけじゃあるまい。
何らかの理由があって、才次は何も食べないで過ごしていたのだろう。
一体なぜ?
ぐるぐると思考が同じ疑問を反芻している内に、林檎はすっかりと剥け白い肉を晒していた。
所々赤い皮が残っているが、そこらへんはご愛嬌ということにしてもらおう。
慎重に四つに割ってから芯と種を取り除き、食べやすい大きさに切り分けて皿に盛り付ける。
てんでバラバラなサイズの林檎が藍色の陶器に並んだ姿はとても不恰好で、
生来の格好付けたがりの俺は全てやり直したい気分に駆られたが、
いつまでも待たせては才次が昏倒してしまう気がして、
流しの上の棚にあった虎の楊枝入れから楊枝を適当に抜いて咳音の元へ急いだ。
戻ると、才次がこんこんと咳き込みながら今まさに立ち上がろうとしていたところだった。
生まれたての小鹿のようによろついているくせに、何をするつもりだ。
思わずまたもや「馬鹿ッ」と怒鳴りつけ、焦りに任せて皿を卓へ叩き付けてしまった。
すると才次は音に驚いたのか俺に驚いたのか、大袈裟に肩をびくっと揺らしてベッドへ座り込んだ。
恐る恐る振り向いた顔はやはり血色が悪かったが、
意識はやや明瞭になったのか表情がはっきりしていた。
ぼさぼさに乱れた霧色の髪が具合の悪そうな雰囲気を助長している。
「おとなしくしてろって言っただろ」
「でも、折角一郎太が来てくれたんだ、茶くらい…」
「それは具合が良くなってから相談に乗るから」
ここで下手に今度飲むからなんて言うと、全快した後に
しつこく誘われるのが目に見えていたから、俺はあえて少々濁した答え方をした。
宮坂にしろこいつにしろ、変な所で記憶力がいいのも困りものだ。
薄暗い部屋に二人でいるのもどうかと思い、電灯のスイッチを探してやっと明かりをつけた。
カーテンが締め切られた才次の部屋は、まるで夜だ。
外は今頃濃い夕焼けに染められて、きっと綺麗だろうに。
恐らく、風邪を引いてから全くカーテンを開いていなかったのだろう。
そんなことをする余裕があるのなら、食事だって取れただろうから。
灯りの下、改めて才次の顔を覗きこんだ俺はぎょっとした。
才次の爬虫類のような丸く大きい目の下に、濃い隈が這っている。
青白い肌に隈とは、こんなにも不気味なものなのか。
「…どうした、一郎太」
「いや、お前、隈がひどいぞ。眠ってないのか」
「あー…夜中は咳が出て、寝らんない。今は百地先輩に煎じてもらった薬で寝てた」
「百地先輩、」
「伊賀島の部長だよ。薬師の家系なんだ」
調子良く話してたかと思ったら、才次は急に咳き込んでうーんと唸った。
今の話からするに、卓の上に投げられていた粉薬の袋は風邪薬のものではなく、
その百地先輩とやらに貰った睡眠薬のものだったようだ。
たかだか中学生が作った薬で大丈夫なのか、と一瞬不安になったが、
あの熟睡ぶりを思えばあながち忍者も馬鹿に出来ない。
しばらく断続的に咳き込み続ける才次の背をさすってやり、
時々平気かと声をかけると涙目になりながら無言で頷いた。
何分かかったろうか。咳がやや治まって来た頃、息苦しさを引き摺ったまま
才次はふいに顔を上げて、俺の目を見つめた。
下ろしたままだった右手に、才次の両手が重なる。
「ね、」
「どうした」
「なんで来てくれたんだ?」
才次の瞳がゆるると歪む。
涙の膜が光を屈折させ、才次の目を桜と夕の二色に見せる。
…こんな色をしていたのか、こいつの眼は。
今まであんなに近くにいたのに、俺は今日始めて才次の色彩を知った。