知らない彼
「先生」
授業後に教科書を片付けている彼を呼び止めた。
部活に励む者、恋人の待つ教室へ向かう者、放課後の解放感誘われ、街へ繰り出す者が多く、教室に残っている者は僅かだ。
彼は視線を手元から俺へと移す。
「あっ僕、だよね。何かな?」
折原君。
その日、彼は眼鏡をかけていて、西日が差しこむ教室にその眼鏡が反射して表情が見えにくい。口角がやや上がっているので、恐らく苦笑に近い表情を浮かべているのであろうと予想する。声色には緊張が滲んでいたから、俺に話しかけられたことに困惑しているのかもしれない。
俺は人好きのしそうな笑顔を作って、彼に向けた。
ここ2か月ほど彼の授業は、欠かさず出席していた。
「どうしたの、臨也。君が毎回出席するなんて正に青天霹靂の出来事だよ」
なんて新羅に言われる始末だ。
化学なんて全く興味がない。だが、彼には興味がある。あれから、あの時の表情が何を意味するのか、考えていた。
しかし、考えても考えても、俺の今までの人生であの状況であんな表情をする奴はいなかった。
ああ、全くもって、人間って奴はおもしろい!
今にも教室で笑ってしまいそうな気持ちを抑え、彼に話しかける。
「先生って、ここの卒業生なんですってね」
そう続くはずだった言葉を俺は変えていた。
「先生はどうしてそんな風に笑うんですか?」
「・・・え?」
彼はあの時と同じ表情をしていた。期待と不安その両方が混ざったような、しかし楽しそうな表情。
それを見て思わず、俺は言葉を変えてしまっていた。
「え、僕そんな、笑ってる、かな?」
彼は自分の頬や口元をペタペタと触って慌てて確認している。もしかして無自覚なのだろうか。
「・・・入学式。俺とシズちゃんが喧嘩したときも笑ってましたよ」
そう告げると、彼はいよいよもって動揺していた。
「ええっ、そ、そうなんだ・・・。ごめんね、自覚してなかったよ」
彼は少し俯いてから眼鏡に手をかけ、教科書の上にそれを置いた。
細い指だ。恐らくほとんど勉強ばかりで運動など碌にしていないんだろう。
「でも・・・」
「でも?」
「それが本当なら、僕はきっと君らに夢中になってたんだと・・・思う。君らがいるだけで、いつもの場所、いつもの空間が全く違うもののように、感じるんだ。わくわくするって言うのかな・・・」
うまく言えないんだけど。
そう言って、青みがかかった瞳が俺を射抜く。
このとき彼の瞳は蒼く見えるのだということを初めて知った。
それから、益々俺は彼を観察するようになった。
「ねぇ聴いてるの?ドタチン」
「聴いてるよ。お前は最近竜ヶ峰先生の話ばっかりだな」
休み時間。俺はドタチンの前の椅子に腰かけていた。ちなみにここの席の奴が座りたそうに先ほどからチラチラ視線を寄こしているが、大したことではない。
ドタチンは門田が本名だ。ドタチンという愛称は知り合ってすぐ俺が命名したものだが、我ながらいいネーミングセンスだと思っている。
そんなドタチンは読んでいた雑誌から顔を上げ、うんざりといった表情を隠さずに表現していた。俺が話しかけてるのに、全く失礼な奴だ。
「そんなに俺ってあいつのこと話してる?」
「自覚なしかよ。・・・お前が竜ヶ峰先生のことを話すときって、まるで新羅がセルティって女について話してるときみてぇだってことだよ」
まぁ新羅ほど酷くねーけどと雑誌に視線を戻したドタチンの言葉は俺の耳に入ってこなかった。
5限の開始のチャイムが響く。生徒が一斉に各々の教室を目指す中、俺は一人屋上を目指す。
軋んだ音を聴かせる扉を押せば、白衣が視界に入った。
彼は非常勤であることを利用して、人がいない5限に昼食をここで取っているのだ。
「生徒は授業中のはずなんだけど?」
彼はパンを頬張りながら、視線をこちらへ寄越す。
それには応えず、彼の手元を見遣る。コロッケパンか。
「またパンと牛乳だけなの?」
「これでも一応まだ学生の身分だからね。贅沢はできないよ」
だから背が伸びなかったんですねと笑いながら返せば、睨みつけてくる青い瞳。
その瞳が自分を捕らえてくれることが嬉しいと感じはじめたのはいつだったか。
でも、視線は直ぐ外されてしまう。そのことで感じる若干苛立ち。こっち見ろ。
「…先生って直ぐ眼を逸らしますよね」
「…折原君の眼が苦手なんだよ」
僕のことを全て見透かそうと言わんばかりに、見つめてくるから。
驚きで眼を見張る俺に彼は慌てて、いや、君の眼は綺麗な形だし、少し赤く見える眼も硝子のようで綺麗だと思ってるよ!?とフォローしてくる。
「ただ、緊張しちゃうんだよね」
そういって苦笑する彼。
「・・・俺は先生について知りたいだけです」
俺の言葉に彼は一瞬驚いた表情をしたが、その後青い目を細めて彼は柔らかく微笑んだ。
「そうやって、興味を持ってもらえるのは嬉しい・・・かな」
息が詰まる。呼吸ってどうすればいいのか。
休み時間のドタチンの言葉が頭の中で響く。
―最近、竜ヶ峰先生のことばっかりだよな
そうだ。気が付けば俺は彼のことばかり考えていた。
目覚めて、その日彼が学校に来るのか思い出して、休み時間に会いに行ったり、他のクラスの授業が担当のときには、屋上からその様子を眺めてたりもした。
「・・・俺、一度先生の家に行ってみたいんだけど。相当ボロいんでしょ?」
唐突にそんなことを言い出す俺に彼はその大きな瞳を瞬かせたが、そのあと困ったように眉を寄せた。
「確かにボロアパートだけど、ダメだよ。生徒に手を出したって噂になっちゃうじゃない」
そう言って、彼は軽く白衣を叩いて立ち上がる。
またね。そろそろ授業は受けなきゃダメだよ。と言いたいことだけ言って、彼は軋んだ音を立てる扉の向こうへ去って行った。
「別にいいよ・・・手を出されたって」
帝人さんになら。
そう呟いた言葉は誰に聞かれるでもなく、見上げた空へ吸い込まれていく。
それから俺は彼の研究室に通うようになった。