白雲
「今日はね、あおえどのに苦情を言いに来たのよ。」
「く、苦情?わたし、何かしちゃいましたか?」
あおえの目がおろおろと泳ぐ。
深雪はここぞとばかりにおもいきり睨みを利かせて声を張り上げた。
「あのね。ウチの子が起きてる時に築地塀の周りをうろうろしないで頂戴!」
は?と、あおえはよくわからないという顔をする。
「だから、ウチの子はね、女の子なの。
馬頭鬼や式神(しきがみ)に慣れたところで陰陽師にはなれないのよ。
わたしと同じようにフツーの女として生きていくの。」
「深雪さん、もしかしてご自分を普通だと思ってらっしゃるんですか?」
不用意なあおえの一言に深雪の檜扇(ひおうぎ)がうなりを上げた。
「なにするんですかぁ〜!」
「わたしのどこらへんがフツーじゃないってのよ!」
「普通の女人は馬頭鬼と会話を楽しんだりなさらないと思いますよ。」
突如割って入ってきた無愛想な第三者の声にあおえはぱっと顔を輝かせて声のほうを
向いた。
「一条さん!おかえりなさ〜い!」
そこには花をも欺くような美貌の青年がひややかな表情でたたずんでいた。
この物の怪邸の主、一条である。
宮中からの帰りとあって袍をまとって髪もきちんと結い上げている。
今の怒鳴り声を聞かれていただろうに、それでも深雪は「伊勢の君」の猫を
かぶり直してすました声で挨拶をした。
「ごきげんよう、一条どの。
お留守の間に勝手にお邪魔してしまって申し訳ございませんわ。
でも今日という今日はこちらのあおえどのに
わたくしどもの事情を察していただきたくて。」
深雪が「伊勢の君」としての対応をしてきたので一条も美貌の陰陽生
(おんみょうしょう)の仮面をつけ2人の前に歩み寄るとにっこりと深雪に話しかけた。
「いえいえ。どうぞお気になさらず。
それよりもこの者が失礼を働いたりはいたしませんでしたか?
きっとご用件を伺う前に余計なことを申したりいたしましたでしょう。」
そんなことありませんよぉ〜というあおえの抗議の声は
一条の一睨みでかき消されてしまった。
「いえいえ。そうこうしている間に一条どのがお帰りになりましたもの。
あおえどのにだけお話できればそれで良いかと思っておりましたけど、
一条どのも聞いてくださるならそちらのほうが都合がいいわ。」
深雪はこほん、と小さく咳払いをしてから檜扇で半分顔を隠しつつ家主に用件を
切り出した。
「ご承知のとおりですけど、ウチには小さい娘がおりますでしょう?
その娘が昨日、こちらのお庭で馬と火の玉が遊んでいるのを見たと申しますのよ。
わたくしとて深い経緯(いきさつ)があってあおえどのがこちらにお住まいなのは
存じておりますけれど、娘にはまだそのあたりのことはわからないでしょうし
聞かせるわけにもまいりませんし、おまえは人外のものを見ているのだから
このことは決して誰にも言ってはいけないなどと申しても
まだ理解できませんでしょう?
ですからあおえどのには申し訳ありませんけど、
日中に築地塀の近くに来るのをやめていただきたいと思いまして。」
まかりこした次第なんですのよ、と、深雪は言葉を結んだ。
一条は終始にこやかに深雪の話を聞いていたが、深雪の話の途中から、懐から紙扇を
取り出し、暑くもないのにぱたぱたと遣いだした。
深雪の話が途切れると、一条は慇懃に返答をした。
「伊勢の君のおっしゃること、至極もっともでございますね。
この者には日中と言わず終日部屋から出ないようにさせますので
どうぞ今日のところはわたくしに免じてご勘弁いただけますか?」
ええっとあおえが抗議の声をあげる。
「そんなぁ!一条さんひどい!
わたしにはお日様を見つめる権利もないって言うんですかぁ〜!」
「あたりまえだ。」
一条が眼光鋭く斬って捨ててもあおえは引き下がらない。
「わたしだって、わたしだってお日様に当たりたいし、水無月さんと遊びたいし、
お隣の楽しそうな感じとか聞いていたいし、
権博士さんと深雪さんのお子さんの成長を見守りたいですよぉ〜!
その権利を取り上げるなんて、一条さんでも許せないですぅ〜!」
「見守るな!気持ち悪い!」
一条が怒鳴りつけるのと深雪が嫌そうな顔で身震いするのはほぼ同時だった。
しかしあおえにはその仕草が見えていなかったのか見えていてもそうせずにはいられ
なかったのか、あおえは深雪の袖にすがりついた。
「深雪さぁん。一条さんはこんなこと言ってますけどぉ、いいですよねぇ?
わたし、お日様の下に出ても、いいですよねぇ?
お子さんの成長を見守っても、いいですよねぇ?」
深雪はさすがにあおえの手を払いのけようとはしなかったが、
「できれば遠慮してほしいわ…。」
と、気まずそうに言った。
「お2人とも…ひどい!」
おいおいとあおえが泣き出すと、一条は小さく舌打ちをし、ぐっとあおえとの距離を
縮める。次の瞬間、あおえの顔面に一条の紙扇が炸裂した。はたいた勢い
そのままに、一条はあおえの胸倉を掴んだ。
「いいか?普通の人間の家には馬頭鬼も火の玉もいないんだ。水無月はまだいい。
気のせいで済むレベルだ。明かりが点っているのを見間違えたとでも何とでも
言い訳ができる。だがおまえはどうだ?人身馬頭の物の怪が隣の家で遊んでいた、
なんて、子どもが口にしたら周りの人間はどう思う?」
「わたしは物の怪じゃありませんってばぁ〜。」
「同じことだ!」
か細いあおえの抗議はまたしても一条の一喝で封じられた。
「でも、でもぉ〜!」
苦しい息の下、あおえはまだ抵抗を続ける。
「冥府にいた頃は、わたし、水子たちにとても人気があったんですよぉ〜。
だからお隣の子も…。」
言下に2発目の紙扇が飛ぶ。
「万が一懐かれでもしてみろ!あだ名はモノノケ姫だぞ!」
「懐かないとは思うけどねぇ…。」
(いや、あんたたちの子どもなら絶対に懐く。)
賢明な一条はその感想は口にせず、ふんと鼻を鳴らして手を放した。
だがあおえはまだ諦めないのか、ちらりと深雪の大きなお腹を見遣ってから、
「じゃあ…じゃあ…今、お邸にいるお子さんのことは諦めますぅ…。
でも、でもさっき、さっき深雪さんは、女の子だからダメだって言いましたよね?
陰陽師になれないからダメだって、言いましたよね?」
と、食い下がる。
「言ったんですか?」
一条が忌まわしそうな目つきで深雪を見た。
深雪は慌てて声を張り上げた。
「た、確かに言ったけど!言ったけどね、あおえどの。
だからって男の子ならいいって話じゃないのよ!?
むしろ男の子のほうがもっと都合が悪いわ!
女の子と違って男の子は多くの人と交わるのだもの。
そこでこの子が馬頭鬼の知り合いがいる、なんて話したら、この子も殿もわたしも、
ひいてはお仕えする弘徽殿女御さままでおかしな目で見られるのよ!?」
ほんの少しだけ不自然なその言葉に一条はおや、と眉を上げた。あおえも鼻を
ひくつかせて訊ねる。
「深雪さん…お腹の子が男の子だってわかるんですか?」
疑問を素直に口にしたのはあおえのほうだったが、一条も深雪の腹部をじっと見つめた