白雲
深雪が部屋に戻ると、すぐに桂が水を張った角盥(つのだらい)を運んできた。
「深雪さま…。」
桂の忌々しそうな口調に深雪は外出が気取られていることを悟ったが、
涼しい顔で受け流した。
「あら、ありがとうね、桂。大姫はおとなしくしていたかしら?」
まったく悪びれる様子のない深雪に桂はため息まじりで小言を言う。
「もう産み月でいらっしゃるのに…何事かあったらどうなさるおつもりですか。
お隣で鬼気(きき)にでも当てられたらと思うと桂は気が気ではございませんよ。」
「当たるならもうとっくに当たってるわよ。
お隣と何年おつきあいしていると思ってるの?
今更何も起きるわけないじゃないの。」
「そのように桂の申し上げることを軽んじられて…。
夏樹さまのことがあったではございませんか。
あのようなあやしの者と交わらなければ主上の御覚えもめでたかった
夏樹さまのこと、今頃は…。」
夏樹の話となると長くなる。深雪は遮るようにして別のことを口にした。
「この子は男の子よ、桂。」
「は?」
脈絡のない話に桂は間の抜けた反応を示した。
「生まれてくる子は男の子よ。だから桂、もう夏樹のことでめそめそしないで。
殿のお血筋だから蔵人(くろうど)は難しいかもしれないけれど、殿のお血筋
ですもの。ゆくゆくは陰陽頭(おんみょうのかみ)にきっとなるわ。夏樹より
出世するわ。殿とこのわたしがいるのですもの。絶対にそうなるわ。だから桂、
少しでも長生きしてこの子を立派に育て上げなくちゃ。」
何かの託宣を受けたかのように、謡うように言葉を紡ぐ深雪に、桂はかえって背筋が
冷える思いがした。
「…本当に鬼気に当てられてしまわれたのではございませんか?」
心配そうに顔を覗き込む桂に深雪は明るく先程の質問を繰り返した。
「それで、大姫は?まだ寝ている?」
桂の表情はまだ曇ったままだったが、女主人の質問にいいえと答えた。
「先程お目覚めになられまして…お母上がいらっしゃらなくて
ご機嫌を悪くされないよう乳母に相手をさせておりますよ。」
眉をしかめてまだ小言を言いたそうな桂に深雪はにっこりと微笑んだ。
「桂がいると安心ね。宮仕えに戻っても心配いらないわね。」
隣に暇つぶしに行っても、と深雪は心の中で付け加えたが、養い子の胸中なぞ桂には
すっかりお見通しらしい。
「いずれお勤めに戻られるのは仕方ありませんけれど、お隣は控えて下さいましね。
御用がおありならお隣に来ていただけばよろしいのです。隣の陰陽生は殿さまの
お弟子なのでしょう?師の筋である深雪さまがおん自らおでましになる必要は
ございません。」
あら、と、深雪は眉を上げた。
「桂も変わったわねぇ。一条どのがこの邸に来てもいいと言い出すなんて。」
桂は渋面のまま、仕方がございませんと続けた。
「殿さまの御用で参ることもございましょう。それに。」
桂は苦々しそうに言った。
「お隣の方が悪いお方ではないのは桂も存じております。それはともかく早く
大姫さまのもとへ行ってさしあげてくださいませ。乳母も困っておりましょう。」
はいはい、と、深雪は文字通り重い腰を上げた。
はたして。
それから10日ほど経って深雪は男の子を無事出産した。
男の子と聞かされて深雪はやはりか、と思ったし、保憲から伝え聞いた一条も
そのように思った。
ただし、子の父である保憲がどのように受け止めたのかはわからない。
とにもかくにも保憲に陰陽の秘術を伝えるべき男子が授かったのはめでたいことでは
あった。
深雪の安産の知らせを受けて保憲の父・忠行や深雪の父・伊勢守(いせのかみ)からも
祝いの品が届いた。
真角(ますみ)―今は元服して保胤(やすたね)を名乗っている―も祝いに駆けつけた。
弘徽殿女御をはじめとして深雪の同僚たちからも次々に祝いの文や品が届いた。
中流とはいえ貴族の子の誕生、正親町の邸はせわしなく毎日を過ごしていく。
9日目の祝いが無事に済み、さらに5日ほどしてやっと一条は隣に祝い口上を述べに
出向いた。
正確には仕事の話をするために保憲を訪ねようとしたところたまたま保憲が隣にいた
だけだったのだが…。
それがなかったら来なかったに違いないと深雪は確信していたが、せっかく桂の中で
評価が上がっているのに水を差すこともあるまい、と、黙って心の中にしまって
おいた。
いかに顔を見知っているとはいえ深雪と一条は他人である。御簾の内に深雪と赤子、
外側に保憲と一条という対面となった。
「保憲さま、伊勢の君、このたびはおめでとうございます。」
「ああ、ありがとう、一条。」
一条の口調はぞんざいだったが保憲は平素と変わらず穏やかに流していた。
深雪はというと御簾の内で
(もう少しくらい心のこもった言い方をしてくれないもんかしらね。)
と、舌打ちをしていたが2人に聞かれるようなヘマはしない。
「お忙しいところわざわざありがとうございますわ、一条どの。」
内心をおくびにも出さずにこやかに声をかける。
さすがに女房を介してのやりとりはよそよそしすぎるので深雪は直接一条に
話しかけていた。
「このところ仕事をだいぶ押し付けてしまっていて悪いね。休息はとれているか?」
保憲の問いに一条は毒気の籠もった返答をする。
「とれているわけがないでしょう。連日連夜、祈祷に駆り出されて正直なところ
疲れています。」
一条はちらりと御簾の内の深雪に視線を遣った。
「二条のほうも、相変わらずの忙しさですしね。」
保憲が困惑顔になるのをよそに、深雪は声を高くした。
「一条どの。お疲れなのはわかりますけど、よもや女御さまの祈祷までも
おざなりにしてはいませんわよね?」
一条は、だから来たくなかったんだとばかりに、投げやりに答えた。
「真面目にやってますよ。それはもう大真面目にね。誰かがこちらに
べったりでなければ手を抜けるだろうところまできちんとやってますよ。」
「まああ!」
深雪の声が怒りを孕んだところで保憲が割って入った。
「まあまあ。一条は今日はわたしたちに祝いを言いに来てくれたのだろう?
赤子の顔を見るか?」
「結構です。」
一条はにべもない。相当に疲れているな、と、保憲は一条の体調を慮ったが、同時に
深雪の様子を窺うのも忘れない。
案の定、深雪は檜扇を握り締めて怒りに身を震わせているようだった。
保憲は苦笑して、
「それでは用件を聞こうか。彼女も同席させるということは、二条の件なんだろう?」
と、事務的な口調で弟子に問うた。
二条の件と言われれば深雪も矛を納めざるをえない。
はい、と答えて淡々と語り始める一条を御簾越しにきっと睨みつけた。
「ここ数日で一段と病が篤くなられたようです。あいにくとこのところ曇天続きで
星の動きが見られませんので確かなことは言えませんが、筮竹(ぜいちく)で
占ってみましても思わしくありません。
伊勢の君には申し上げにくいことながら…。」
一条は言葉を切って御簾の向こうの深雪をまっすぐに見た。
「その時は近いかと。」
先程まで怒りに震えていた深雪が一転、顔色をなくしていく気配がした。