二次創作小説やBL小説が読める!投稿できる!二次小説投稿コミュニティ!

オリジナル小説 https://novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
二次創作小説投稿サイト「2.novelist.jp」

白雲

INDEX|6ページ/9ページ|

次のページ前のページ
 

場に冷たい空気が漂う。いや、寒いと感じているのは深雪だけかもしれない。
保憲も一条も淡々とした表情をしていた。
先程まで聞こえなかった秋の虫の音が、自身の心の臓の音とともに深雪の耳の中で
やけに大きく響く。
それに反して深雪は視界が真っ白になる心地がした。
一条の台詞の意味がわからない。
彼は今なんと言った?彼は今、なんと言った?
二条で彼が祈祷をしている相手…弘徽殿女御の死期が近いと、そう言ったのか?
本当に?
本当にそんなことが?
「そうか。」
暫くの間の後聞こえてきた保憲の声は何の感傷も含んでいない。
御簾1枚を隔てた向こうの夫の声が深雪にはやけに遠く感じられた。
からからに乾いた喉から深雪がやっとの思いで絞り出した声は、自分のものとは
思えないほどにかすれ、震えていた。
「…行かなくちゃ…。」
「伊勢の君?」
一条の手前、保憲は妻を女房名で呼んだ。
「女御さまの御許へ行かなくちゃ…。」
ゆらりと深雪が立ち上がる。
保憲は素早く御簾の内に入って妻を抱きとめた。深雪は保憲の腕の中で必死に抗う。
「しっかりなさい。」
「放して…!」
間近で見た深雪の唇はすっかり青くなってわなないていた。
「行かなくちゃ…女御さまの御許へ行かなくちゃ…!
お傍で励まして差し上げるのよ…!お約束したのよ…きっと女御さまのところへ
帰るって…!」
保憲が口を開きかけたそのとき、一条が冷たく言い放った。
「行ってどうなるというのですか。」
保憲の腕の中で深雪はびくりと大きく震え、次いで憎悪のこもった瞳で一条を睨み
つけた。
その視線を真っ向から捕らえて一条はもう一度繰り返した。
「行ってどうなるというのですか。あなたが行ったところで女御の命数は変わらない。
今女御のもとへ行くべきなのはあなたではなく僧でしょう。」
かっと深雪の頭に血が上る。
「口を慎みなさいよ!あなたなんか…あなたなんかに…!」
保憲が押さえつけていなかったなら深雪は確実に御簾の内を飛び出して檜扇で一条を
おもいきり殴りつけていたことだろう。
さすがにこれは言い過ぎだ、と、保憲も一条をたしなめる。
「一条。」
一条は謝ったりはしなかった。
場に重い沈黙が流れる。庭の虫の音がそらぞらしいほどだった。
重苦しい間の後にその沈黙を破ったのは意外にも一条だった。
「祈祷に手抜きなどしていませんよ、伊勢の君。本当にもう、手の施しようが
ないのです。あなたが宿下がりされている間に女御さまは随分とおやつれになった
そうです。薬師も匙を投げました。もう…。」
できることなどないのです。
一条の宣告に深雪は悲鳴をあげたくなった。あげられるものならあげていただろう。
深雪が悲鳴をあげないのを何者かが嘲笑っているかのように、重く冷たい、無情な
空気が場を包む。
いつの間にか深雪は涙を流していた。
立ち尽くし、保憲に支えられたまま、はらはらと涙を流していた。
母の涙の気配を察知したのか、傍らの赤子も泣き出した。
が、深雪はその存在を認識していないのか、抱き寄せてあやすようなことはしない。
御簾の外ではひとの気配に一条がほんの一瞬だけそちらに視線を遣った。その様子に
保憲が外を窺うと、赤子の泣き声に気づいたらしい乳母が部屋の手前で困ったように
立ちすくんでいた。
赤子が泣いているのはわかっているものの、御簾の前で氷の表情を作り微動だにしない
美貌の客人の存在に、それ以上近くへ行くのがためらわれたようだった。
保憲は彼女を招き入れ、赤子を別室へ連れて行かせた。
乳母は逃げるようにその場を後にした。
一連の出来事の間、深雪の時間は止まっていたのかもしれない。
長い長い沈黙の後、深雪はいとこの名を呼んだ。
「なつき…。」
ぴくり、と、御簾の外で一条が眉を上げた。
「夏樹の太刀…あれがあれば…夏樹がいれば…。」
深雪がようやく絞り出した震え声を一条はまたも冷たく斬って捨てた。
「冥府からの迎えを追い返せるとでも?正気ですか?」
「あなたが死んだときだってそうしたじゃないの!」
「伊勢の君!」
それまで2人のやりとりには口を挟まなかった保憲が大声で妻の名を呼んだ。
びくりと深雪の肩が大きく跳ねた。
保憲は大きく息を吐いてから努めて穏やかな声で深雪に語りかけた。
「…わかっているでしょう。それは禁忌なのだと。あなたはちゃんと
わかっているでしょう。あのときいとこどのをあなたは止めたではありませんか。
一条の魂をとどめ置こうとしたいとこどのに、およしなさい、と。わたしと、
若い牛頭鬼(ごずき)を見送りましたね。あなたはわかっているはずです。
人の寿命というものを。かりそめのいのちの虚しさを。…わかっているはずです。」
夫の静かな声を聞くうちに深雪の口から漏れるものは言葉から嗚咽へと変じた。
へなへなとその場にくずおれる妻を保憲はやさしく支えてやった。
しばらくして保憲は一条に言った。
「一条。ここはもういい。続きは御所で聞こう。
ご苦労だった。それからありがとう。」
「では…。」
「待って。」
平伏して立ち去ろうとした一条を深雪が呼び止めた。
「どうして一条どのは現世に戻れたのに、女御さまには許されないの?不公平よ。」
深雪はもう泣いてはいなかった。
「あなたに生き返ってほしくなかったって言うんじゃないわ。そうじゃなくて。
現にあなたは禁忌を破って生きているわ。どうして女御さまには
それが許されないの?許されないなら、あなたは何なの?」
それは深雪がずっと聞きたかったことかもしれなかった。
問われた一条は返事に窮することもなく、思うところをそのまま淡々と述べた。
「わたしが代償を支払ったからですよ。夏樹が、閻羅王(えんらおう)たち冥府の連中と
契約をした。あの藤原久継(ふじわらのひさつぐ)を捕らえて今後もあおえの面倒を
見るなら、そしてわたしが生き返った代償を払うことができるのなら、現世に戻る
ことを認めるとね。わたしは代償を支払いました。御覧ください、伊勢の君。」
一条は怪訝そうな深雪の前でしばしの間まぶたを伏せ、唐突に目をあけた。
さすがに深雪もたじろいだ。一条の瞳は黄金に輝き、冠からこぼれる長い髪は白く
変じていた。
禍々しい、この世の者とは思えぬ姿…。
我知らず、深雪はごくりとつばを呑んだ。
深雪の反応を十分に見て、一条は再び目を伏せる。次に目を開いたときにはもう
彼の瞳も髪も普通の色に戻っていた。
「このような姿で主上のお傍に侍ることは許されますまい。わたしとて
陰陽師でなければとてもひとの世にはいられない。」
一条の口調に自嘲めいたものが混じる。
「わたしの場合はこのような形で代償を支払いましたが女御さまが代償を支払う
というのならどういったものになるのか、本当のところ誰にもわからない。」
一条の脳裏に懐かしい友の面影がよぎる。彼―夏樹だとてまさか一条自身がなんらかの
代償を求められることになるなど、あのときは想像だにしなかったに違いない。
一条は自問する。このままひとの世にいるべきなのか。ひとの世に留まることが
許されるのか。助かった命をみすみす捨ててやるようなつもりはないが、夏樹のいない
作品名:白雲 作家名:春田 賀子