白雲
都で窮屈なひとの世を生きていくことを馬鹿馬鹿しく感じることはある。どうせなら
都を捨てて遠く東国の友の近くでわずらわしいことすべてから解放されて自由に
暮らしたい。
だが、一条にそれが許されることはあっても、左大臣の娘である女御にそれが許される
ことなどない。今の死を先延ばしにしたところで結局女御に行く道はなくなる。
自害でもするしかないだろう。
深雪に向かってそう口にするのはさすがの一条にも憚られた。相手が夏樹であれば口に
していたかもしれないが。
だがその真意は深雪に十二分に伝わったようだ。
深雪が寂しそうな笑みを浮かべて話すのを保憲はじっと見つめていた。
「お話、よくわかったわ。でも一条どの。あなたは人よ。人であることをやめては
いけないわ。夏樹はあなたをひとの世から追い出すために、あなたを助けたわけ
じゃないわ。」
一条の琥珀色の瞳が一瞬だけ困惑めいた表情を見せたのを保憲は見逃さなかった。
「わかっておりますとも。ではわたくしはこれで。」
音もなく一条が去っていく。
一条の足音の代わりに深雪の耳に響く虫の声。
深雪は保憲に体重を預けたまま、じっとその気配を感じていた。
保憲のぬくもりが、今にも再び泣き崩れそうになる深雪をやさしく支えていた。
だから深雪は、泣くことができなかった。
正親町の邸に急使が来たのはそれから5日も経たない寒い日のことだった。
数日のうちには二条の邸に復帰するつもりでいた、その矢先のことだった。
急使を待つまでもなく、深雪は女御の死を知っていた。
その朝、夢枕に女御が立ったのである。
夢の中の女御はいつものように穏やかに微笑んでいた。病に罹るより以前の、
健康な姿だった。深雪が寝間にしている塗籠の入口のところにたたずんでいた。
愛らしい女御の姿によく似合う、山吹色の小袿を着て。
深雪は驚いて畳の上に起き上がり、声をかけようとした。だが、声が出ない。
女御のほうへ歩み寄ろうとした。だが、歩けない。まるで畳の上に縫いつけられた
かのようにまったく動けなかった。
女御は動けない深雪を前に何を語ろうとするでもなく、ただ黙って微笑んでいた。
そのままどれくらいの時間が経過したのか深雪にはよくわからない。
やがて、女御は檜扇で顔を隠すとすっと霧散した。
「女御さま!」
自分の叫び声で深雪は目覚めた。
指先は氷のように冷たく、まなじりからは涙があふれでていた。
はあはあと肩で息をしながら、深雪はなんとか立ち上がって女御がいた辺りへ行き、
その場所を手で触れてみた。が、人がいた気配など微塵もなく、そこにはただ冷たい
床板があるだけだった。
「女御さま…。」
深雪は声を押し殺して泣いた。声を出せば桂たちに気づかれてしまう。
空が白み始める直前まで、その場に座って泣き続けた。嗚咽を噛み殺して泣き続けた。
そうしているうちに邸内の人間の起きだす気配がした。
深雪はそっと夜具に戻り寝ていたふりを装った。
目が腫れているかもしれない。でも、目の悪い桂には気づかれはしないだろう。そんな
ことを思いながら…。
そして、朝餉の頃、弘徽殿女御薨去の急使が来たのだ。
産後の物忌みは明けていたので深雪は二条の左大臣邸に戻り、同僚たちとともに女御を
送るための一切を手伝った。その中で深雪も女御と対面を果たした。
臨終にあたり弘徽殿女御は出家して髪をおろしていた。
すっかりやつれて細くなり、当たり前だが生気のない女御の顔。ふち取る髪が醜く短く
なっていることに深雪は言い尽くせないほどの衝撃を受けた。
小宰相の君から、本当にいまわの際、女御の強い希望に左大臣夫妻が折れたのだと
聞かされた。
辞世の歌は残さなかった。
ただし深雪には小宰相の代筆だが1通の文が遺された。
内容は小宰相に次ぐ腹心の女房としての長年の働きへの感謝と、気落ちするであろう
左大臣一家をどうか見捨てないでいてほしいということ、そして、深雪と深雪の子の
安寧をいつもどこかで見守っている…というものだった。
紙には女御の好きだった香がたきしめられていた。
もちろんそれは小宰相が施したものだったが、それでも深雪は女御の息吹を感じ、
また涙にくれた。
初七日が過ぎるまで深雪は二条に詰めていたが、それが済むと小宰相の君に帰宅を
勧められた。深雪は帰らなかった。気丈に振舞っている小宰相の君に濃い疲労の色が
見え、とても放ってはおけなかった。
むしろここは自分に任せ、小宰相の君こそ休息を取るべきだ―深雪はそう提案したが、
亡き女御第一の小宰相の君は頑として譲らなかった。
「ろくろくおやすみにもなっていないじゃありませんか!お食事も召し上がっていない
のでしょう!?」
深雪が叱りつけるように小宰相の君に言うと、彼女は寂しそうに笑った。
「眠れるわけがないではありませんか…。伊勢の君。わたくしは女御さまの御ために
だけ生きてきたのです。その方がこの世を去ってしまわれたのにわたくしだけ眠る
などと…わたくしだけものを食べるなどと…どうしてできましょう。」
せめて形見の子でも遺してくれていたら、小宰相の君もここまで自棄にはならなかった
かもしれない。だがこのままでは後を追うか、衰弱して死んでしまう。
深雪は他の信頼できる女房数名と交代で小宰相の君を見張ることにした。
(いっそ一度倒れてくれれば楽なのに…。)
深雪の苛立ちは募る一方だったが小宰相の君は食べも眠りもしないのに一向に倒れる
気配がない。
しかし結果的にそのことがかえって小宰相の君の考えを改めさせたようだ。
ある日を境に小宰相の君は睡眠も食事も少しではあるが取るようになった。
亡き女御の居間を片付けているとき、深雪はそれとなく理由を訊ねてみた。
「食事も、眠ることもあんなにも拒んだのに、わたくしには浄土からの迎えはついぞ
やって来ませんでした。幼き頃より片時も離れず女御さまにお仕えしてきたわたくし
なのに…。女御さまはわたくしがお傍にいることを望んでおられないのやも
しれない…。そのように思いはじめましたら、いつの間にやら眠っておりましたの。
目が覚めたときには涙も出ました。もう涸れ果てたと思っておりましたのに。」
それから小宰相の君は、女御薨去以来やめていた写経を部屋で行うようになったと
言った。
「経文を書くのは疲れますからね。食べて眠らねばもちませんわ。
でもね、伊勢の君。」
小宰相の君ははっきりと断言した。
「女御さまの四十九日がつつがなく済みましたなら、わたくしは出家いたします。
お後を追うことはお許しにならなくても、結縁(けちえん)することは女御さまも
お許しになるでしょう。その前にあなたをはじめ女御さまにお仕えした皆の身の
振り方を、なんとかお世話いたしますから。ご心配なさらないでくださいましね。」
次の主に仕えることを小宰相の君は望んでいない。本人の希望どおり出家させるのが
彼女のためなのだろう。それは深雪にも痛いほどわかった。
だがそれでも、仏門に入るということは尊いことではあっても、現世に彼女の生きる
道が他にはないと思い知らされるのは、深雪にはやはり辛かった。