白雲
女房としての深雪は小宰相の君に育てられた。小宰相の君がいたから最後まで女御に
仕えることができた。
深雪にとっては姉も同然の人である。その彼女が世を捨てるのはやはり辛い。
かといって深雪自身は幼い子を2人も残して出家するわけにもいかない。激務に翻弄
されている夫のことも心配だ。小宰相の君と違って現世への未練は山ほどある。
深雪は自身の覚悟の甘さを痛感していた。
(いのちある限り、女御さまにお仕えするっていうのは、こういうことよね。)
深雪の脳裏に一番に浮かぶのは残念ながら弘徽殿女御ではない。だが、小宰相の君の
脳裏に一番に浮かぶのは今も昔もずっと変わらずに、女御なのだろう。明るくやさしく
茶目っ気があって、美しく健康な、弘徽殿女御なのだろう。
「小宰相の君。」
深雪は努めて明るく言った。
「お仕えした皆すべての身の振り方まで、あなたが背負い込むことはございませんわ。
わたくしのこともわたくしでなんとかいたします。だから小宰相の君は、志を同じく
する方たちと女御さまの菩提をお弔いしてくださいませ。」
わたくしはご一緒できませんけど、と深雪は言葉を繋ぐ。
「いのちある限り女御さまお1人にお仕えしたいという方は、きっと他にも
いらっしゃいますわ。」
「伊勢の君…。」
後輩の名を呟くと、小宰相の君は堰を切ったように泣きはじめた。
むせび泣く彼女の背を深雪はやさしくなでてやった。
年が明けた。
正親町の邸の庭には菅公ゆかりの白梅が美しく咲き誇っている。
子どもたちが昼寝をしている間、深雪はひとり、その香りを楽しんでいた。
せっかくの名花、香りだけではもったいない、と、深雪は御簾を上げさせて白梅の姿と
その向こうに広がる初春の空も楽しんでいた。
庭の梅に合わせて今日の深雪の装束は一番上に白い小袿を重ねた梅染めである。
「あらあら、雲が出てまいりましたね。」
桂が高坏(たかつき)に柑子(こうじ)を載せて運んできた。
「ありがと、桂。」
柑子を手に取り、深雪はぼんやりと遠くにたなびく薄雲を眺めた。雨を降らすような
ことはないであろう、頼りない雲である。
深雪は今もまだ二条の邸で左大臣夫妻や女御の姉妹に仕えている。四十九日はとうに
過ぎ、かねてから言っていたとおり小宰相の君は仏門に入ってしまい、深雪は最古参の
女房の1人だった。
有能な深雪に新しい仕事先をと小宰相の君は気遣ってくれていたが、深雪のほうから
断った。
「生涯を女御さまお1人を主として過ごすことはできませんけれど、一周忌までは
こちらに残って皆様と女御さまを偲んで暮らしますわ。」
深雪なりのけじめだった。
弘徽殿女御に仕えていた者の大半は散り散りになった。
小宰相の君のように仏門に入った者、深雪のように左大臣家に残った者、二条の邸を
離れて別の主を持った者、実家(さと)に帰った者。
1人、また1人と去って行く。
深雪は彼女たち1人ずつの背中を押してやり、旅立つのを見送った。
寂しさがないわけではないが、仕えた女御はもういないのだ。
離れがたいという思いを持つ者は決して少なくはなかったが、主人を亡くした全員を
左大臣家で使い続けるわけにもいかなかった。左大臣家の懐事情のためというよりも、
単に人手に余剰が生じたためである。
小宰相の君に替わって亡き女御に仕えた女房たちを束ねる深雪だったが、忙しく
働くような機会には残念ながら恵まれない。
そのような事情で深雪は結構な頻度で宿下がりを許され、今日も正親町の邸で暇を
持て余していた。
じっと雲を見つめる深雪の脳裏から離れない歌があった。
「ま幸(さき)くと 言ひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも」
ずっと昔、奈良の都の時代に詠まれた挽歌である。
(古臭い言い回しだけど…。)
深雪には作者の気持ちがよくわかった。
あの、女御が世を去った朝、深雪の夢に現れた女御は霞のように消えた。そして、煙と
なって天に還るのを皆で見送った。その煙はまさしく雲のようにたなびいていた。
(今、流れている雲も、女御さまなのかしら…。)
次の瞬間、深雪の感傷はあっけなく終わった。
たなびく雲のはるか下、梅の枝の向こう、築地塀の上のあたりに、ふわふわと舞う
火の玉とそれにじゃれかかる馬の頭が見えた。
「まあ!」
突如声を上げた深雪に、桂は怪訝そうな声をかけた。
「いかがなさいました?深雪さま。」
目の悪い桂には庭の向こうで繰り広げられている異様な光景が
見えていないようである。
だが桂に見えていなくても、また大姫の目に入ったら…。
深雪はすっくと立ち上がり簀の子縁へと向かう。
慌てて桂が進路をふさいだ。
「深雪さま!まさかお隣にいらっしゃるおつもりではございませんよね?」
「すぐ済むわよ。」
「なりません!」
「じゃあ桂が行ってくれるの?」
ぐっと桂が返答に窮する。
「それは…。」
ほらね、と、深雪は勝ち誇った表情で言い放った。
「ちょっとお隣に苦情を言ってくるから。子どもたちをお願いね。」
重い装束をものともせず、童女のようにたっと走って庭に下りた深雪の白い背に、桂は
必死で懇願した。
「深雪さま!そういうことは殿さまに…!」
庭を少し進んだところで深雪は桂を振り返ると大声で叫んだ。
「女の格好はやっぱり走りにくいわねー!!」
「深雪さま!」
再び庭を走りだした深雪にはもう桂の声は聞こえていなかった。
いつの間にか雲は流れ、あたたかい陽射しが白梅と深雪を照らしていた。
<了>