立ち竦む恩寵
我は死ぬのか、残して逝くのか――
男の痩せた手が宙を彷徨い、ふつりと糸が切れたように力なく落ちる。その一連の動きを、家康は言葉にし難いような思いを抱えたまま見つめるしかなかった。
そっと様子を窺えば元親の顔にも、仇を討った喜びよりもさらに色濃く、予期しなかった後味の悪さが浮かんでいる。苦々しい顔をした友は、畜生、と苛立ったように吐き捨てた。
倒れた男に視線を戻す。全身に病みついた身体を隠す布を巻き、動かぬ脚を抱えた姿。家康や元親に比べればあまりに薄い、今となれば何故あれほどに戦えたのかが思議なほどの衰えた身体だ。そして世に在る総てへ怨みと憎しみばかりを吐き出し続けた口が最後に紡いだのはただひとつ、残す無念だった。
それがお前の本当の姿か。
家康はやりきれない思いに唇を噛み、小さく首を振る。
三成が、お前にそれを与えたのか。
家康が知る限りでは、大谷と三成は互いに互いを忌避しない分だけ他よりは近しい間柄に見えた。大谷は三成の気性を恐れず、三成は大谷の抱える病と不幸を喜ぶ嗜癖を恐れなかった。だが逆に言えばそれだけでしかなかったのだ。最後の声で身の内の憎悪を叫ぶでもなく世を呪うでもなくただひとりの名を呼んだ、それは家康の知らない大谷の姿だった。
卑劣な策謀を巡らし、数多の命を奪ったこの男にもまた、残したい絆があったのだと。
(また、断ち切られた)
家康が抱えたのはそんな思いだった。己の仇相手に沈痛な表情を浮かべた家康に対して、元親も咎めることはしない。地面に倒れた男の身体は輿から投げ出された形のままで、面の隙間から虚ろに開いた眼が覗いていた。かつては同じ旗の下で戦った相手だ。綺麗事だとわかってはいても、せめてその目蓋を閉じてやろうと、家康は男の小さな抜け殻へと足を踏み出した。
「――家康!」
だが、唐突に元親が鋭く叫ぶ。同時に家康は覚えのある殺気を感じ取った。全身を貫く凶暴な意志に息を呑み、反射で飛び退りながらも気配を探して天を仰ぐ。
眼を向けた先、上方の切り立った崖からひとつの影が音もなく飛び降りるのが見えた。そして宙にありながら素早く鞘を払い、影が放った白刃が、瞬く間に伸びて家康の目前へと迫る。咄嗟に姿勢を変えてかわした家康は、続けざまに地を蹴り後ずさって距離を取った。
ざ、と土を踏んでとどまった家康が拳を構えたのと、土埃をあげて地に降りた影がゆらりと立ちあがるのは同時だった。
漆黒と藤色の具足を纏う痩躯、白銀色の髪を吹き抜ける生温い風が乱す。
凶なる王がそこにいた。
すぐにも第二撃が来るだろうと身構えた家康は、奇妙な間に気付いた。雑賀の里では出会った瞬間に禍々しい憎悪と執念に満ちた姿を見せた男が、家康を前にしていながら、怨嗟の声をあげるでもなく怒りに身を任せるでもなくその場から動かない。
その眼は、地に横たわったもう動かぬ骸へ向けられていた。
「――三成、……?」
凝り固まったようにただ一点を凝視する三成を見て、家康の口から思わずその名が零れ落ちた。だが憎い仇に名を呼ばれても反応せず、三成は地に転がった「それ」を貫くように見据えている。膚がちりつくような緊張の中、立ち尽くす三成を相手に拳を構えたまま、家康もまた予想しない反応を見せた相手に対して動けない。
その一方で、対峙した二人を前にした元親にもまた焦燥が募っていた。三成の反応は間違いなく異様だった。家康と同じく元親もまた、何があろうと三成は、家康を眼にしたその瞬間に牙を剥き飛びかかるに違いないと思っていたのだ。
元親が握った碇槍の穂先から、赤い雫が音もなく落ちる。
三成が食い入るように見つめている「もの」――大谷吉継。己から総てを奪い、あまつさえその罪を家康になすりつけ潰し合いを目論んだ悪辣な男。西で過ごした短い期間、元親は徐々に変化していく三成を気にかけることばかりに苦心して、その参謀たる男とはさほど関わり合いを持たなかった。
だがそれでも、三成の陰にはいつもこの男の姿が見えた。気が付けば凶王の隣に控え、互いの名を呼び、知略を捧げ、休息を知らぬ男に時に眠りを与えていた唯一の。
宙を彷徨う痩せた手の探していたものが何かなど問うまでもない。
募っていく不穏に背中を押され、石田、と声をあげようとした瞬間に、凶王がぐるりと傀儡めいた動きで首を回して元親を見た。
その首を追い続けた家康ではなく、元親を。
「長曾我部」
およそ人の持つべき色の一切を排した、音の連なりでしかない無機質な声。
「刑部は貴様に何をした……?」
それはこのうえなく理性的な問いだった。だからこそ元親の中へ湧きあがったのはその理性への喜びではなく、背筋の寒くなるような切迫感だ。なぜ追い続けた仇である家康を前に、己の右腕の亡骸を前にしたこの状況で、この男がこうまで整然とした問いを口にする!知らずに乾ききった唇を舐め、元親は低く声を漏らした。
「あんたは、……本当に知らねえんだな」
「元親」
構えを解かないままの家康が慎重に呼びかける。家康が危惧するものを知りながら、元親は真実を告げようと決意した。それが例え激昂を導くとしても、この男が今まさに何を思っているのかを知ることが出来るならば構わない。この異様な静けさの方が、元親にとっては耐え難かった。
「四国を襲ったのは家康じゃねえ……。毛利、そして――大谷だ……!」
元親は鋭く言い放った。
だが三成は、少しの驚愕も示さなかった。ただその眼だけが凍りついたまま元親を見据えていた。
「嘘じゃねえ、俺と家康を戦わせるよう仕向けたんだ。俺はあんたに嘘は言わねえ!」
元親は反応を引き出したくて声を張り上げた。
「俺はあんたを裏切らねえと、言ったろうがよ……!」