立ち竦む恩寵
刑部。
鬼がまた可笑しなことを言うのだ。手垢のついた忌むべき行為にその手を染めておきながら穢れなどないもののように振る舞って、再び耐えがたい偽りを吐く。総てその繰り返しなのだと知った日に決めた、貴様も知っていたろう、貴様だけで充分だ。それだけのことだ。
あの男の首を毟り取りあの御方へと捧ぐため。それ以外の何も見る必要はなく、それ以外の何も聞く価値はない。私は貴様の声だけを聞く。それで総ては事足りる、もう誰も何も囀る必要はない。偽りも真も意味など知らぬ。貴様だけがそこにいろ。
刑部。
貴様の声は聞こえる。
貴様の言葉はわかるのだ。
不幸を呼ぶとは何を指す。絶望が似合うとは何のことだ。
裏切らぬと男は言う。その声などすぐにも消してしまえよう。
だが、
ならば、
―――――裏切ったのは、誰だ。
元親が叫んだのは紛れもない本心だった。だが、敵軍へ与しておきながら勝手なことをと蔑まれてもおかしくはない言葉を向けてすら、男は無反応を崩さない。元親はその様子に歯噛みして、衝動的に三成へと近づこうとした――それと同時に家康が動いた。家康は握りしめていた拳にありったけの力を込めて、空中にその拳を打ちつける。ごう、と渦巻く音と共に強烈な突風が元親の背を襲った。
「それに乗れ、飛べ元親!!」
叫びながら家康もまた地面に己の拳を叩き込み、反動を利用して一気にその場を離れる。その声に反応した元親は考えるよりも先に本能に任せて動いた。妙にゆっくりと流れてみえる時間の中で槍に片脚を乗せ、家康の放った奔流に逆らわずに背を押されながら腕を伸ばす。
そして表情を変えないままに立ち尽くす凶王の胴に腕を回し――その身体を抱え上げながら地を蹴ると同時に、時間が元の速さを取り戻したように思えた。空気をつんざき、腹の底から身を震わせるような轟音に気付いた時にはもう、つい先程までいた場所が吹き飛んでいた。
衝撃で破砕された地面の塊ごと空中に投げ出され、吹き荒れる熱風が膚を炙る。食い縛った歯の隙間から唸り声をあげ、元親は上下左右もわからぬ中で必死に地面を探し続けたが、次の瞬間崩れた岩盤に頭から突っ込んだ。
「………ッぶあ!」
数瞬とも数分ともわからぬ間の後で、元親は口に含んだ砂塵を吐き出しながら顔をあげた。隻眼で忙しなく周囲を見渡せば、眼前に広がるのはつい先刻までとは様変わりした荒涼たる光景だ。大地は抉られ亀裂が走り、反対に隆起した地盤が鋭い切先を天に向け、そこかしこで岩石が崩れる音が響く。
何が起きた。
鋭く問いながら、元親は同時に答えを導き出す。
――砲撃だ。地をまるごと抉るほどの巨大な砲撃を受けたのだ。
「……おい、家康!答えろ!……石田!」
腕で抱えあげたはずの男の姿も傍にはない。身体に重なった岩の残骸を押し退けて立ちあがり、全身に鈍い痛みはあるものの致命傷はないことを確認しながら元親は声を張り上げる。
「元親、無事だな!」
後方から声が飛んだ。勢いよく振り向けば、既に立ちあがっていた家康が、厳しい視線を遠方へと投げている。その視線を追って、元親はようやく何が起きたのかを正確に悟った。
西軍が陣を張った高台の一角、そこに据えられた大筒が、間違いなくこの場所へと砲口を向けている。
「何で、……石田がここにいるじゃねえか……、」
茫然と言いながら元親は気付いた。遠目に見える大筒に群がる兵たち。そこに将の姿はなかった――だが、その兵卒たちの装束は元親にこそ馴染みのあるものだった。馴染みたくもなかった、見慣れた敵軍の姿だ。
「毛利軍……!」
低く唸った家康もまた、その正体を悟ったようだった。
「あいつは、どこまで…!」
自軍の総大将に対してすら平然と腕を振り砲撃を指示する、あまりにも想像するに容易いその姿を思い描き、元親は吠えた。その視界の端で、ゆらりと細い影が動く。立ち込める砂塵に紛れてすうと立ちあがった姿に眼を向け、元親は思わず安堵の息をついた。
「石田、あんたも無事で――」
そしてその顔に浮かんだものに声を失う。
自身を撃った大筒を瞬きもせず見上げる凍りついた横顔、その唇が唐突にぐいとねじれた弧を描いた。
「は、」
三成は、天を仰いだ。
「は、はは。ははははは は はは!!」
おぞましいほど寒々しい哄笑、同盟を結んだ日に目の当たりにしたよりもなお激しい狂乱が、一挙に天を貫いた。三成は可笑しくて堪らないと言うように全身を大きく震わせ引き攣った笑い声をあげ―――次の瞬間には元親の視界からかき消えた。
瞠目した元親の後方から、甲高い金属音が響く。
振り返った元親が見たものは、三成が振り下ろした刃を拳の背で受ける家康の姿だった。三成は全身から殺気を立ち昇らせて刀を振りきろうとし、家康はきつく眉を顰めてそれを押し返そうとする。驚愕しながら元親もまた反射的に槍を構えた。それを眼にした途端、家康がさらに厳しい表情を浮かべる。そして叫んだ。
「行け!」
言われた言葉を瞬時に理解して、元親は仲裁しようとした動きを止めた。
「毛利を!初めから動きがなさすぎた、全員を消耗させて叩く気だ――狙っているものは明らかだ!止めてくれ。お前が行ってくれ元親!」
言いながらも家康の腕は三成の刀に対し一進一退の緊張に震え、その腕に血管が盛り上がるのが見える。元親は真っ直ぐにその眼を見つめた。家康の眼は強く、微塵の迷いもない。
「死ぬんじゃねえぞ!」
腹の底から叫ぶと同時に、元親は碇槍に脚を乗せた。即座に穂先が火を噴く。
三成もまた横目でそれを見遣ったが、急速に遠くなる背に刀を向けることはしない。もはや三成の興味はそこになかった。