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立ち竦む恩寵

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 裏切り者め。
 二人だけが残った戦場で、互いの武器越しに家康を睨み据える凶王は幾度口にしたかもわからぬ呪詛を低く低く繰り返した。自軍の砲に撃たれたのだと悟った瞬間、誰かが三成の耳元で喚いた。
 殺せ、三成。
 掠れた声が叫び、それ以外の何をも押し潰した。殺すのだ、ぬしを裏切った輩を許すな、許すな、一人たりとも許さず殺せ、呪え、殺してしまえ……!三成はその声に抗わない。そしてその声が誰のものなのか、認識しようともしなかった。三成はそれを切り捨てている。
「三成……!」
 家康はこの相手と辿り着いた場所が予想と違わないことに呻いた。元親を前にした三成が、凶器を振るうのではなく言葉を使うことを選んだ時、もしかしたら、とひとかけらの可能性を考えないではいられなかったのだ。三成へと語りかける元親を息を殺して見守りながら、もしかしたら三成は誰も考えもしなかった、全く違う道を選ぶのではないかと―――
 だが毛利の行いが瞬く間に三成を引き戻した。裏切りを憎悪し世を呪う、絶対の断罪者たる凶王へと。まるであの時のようだ、と家康は苦く思い出す。三成が初めて見せた慈悲と躊躇いが、覇王のひと言の下に一瞬で消え失せたあの日。
 家康が、知らぬ間に背を預けていた相手を否応なく失い、同時に自ら捨てたあの日だ。
「裏切者め。裏切者、裏切者裏切者裏切者裏切者裏切者……!頭を垂れろ許しを乞えその首刎ねて捨ててくれる!」
 己の罪を認め許しを乞えと憎しみに満ちた声が弾劾する。
「ワシに、そのつもりは無い……!」
 毅然として真正面から視線を返した家康に、三成はいっそ悦びに近い歪んだ表情を浮かべた。
「貴様らしい答えだ!ああわかっている貴様はまったく変わっていない!己の罪など素知らぬ顔で綺麗事を嘯き聞こえの良い言葉を並べたて笑うのだ、そうだ笑え、貴様に騙され無様に踊る愚か者を嘲笑うがいい!」
「三成……!ワシは誰のことも笑いはしない!絶対に!」
「黙れ空々しい!貴様も刑部も毛利も……!誰も彼もが咎めを受けるに相応しい!ああだがまずは貴様を斬滅し尽くし首も舌も掻き切ってやる!家康……家康……!!」
 家康は告げられた言葉に眼を見開く。
 己の片腕すらも同じく罪人として挙げ連ねた。それは狂気に身を浸したはずの三成が、未だにあの周囲を切りつけるほど潔癖な尺度を持ち続けていることを示していた。そして罪人としてその名を呼んだ声のあまりに酷薄なことに、宙を彷徨う腕が脳裏をよぎり、家康は思わず声をあげた。
「ああ――刑部の行いは決して許せない卑劣な手だ、」
 三成は常に傍らにいた男を否定されても表情すら変えなかった。
「……だが、だがあの男が動いたのは、お前ためではなかったのか、――お前の不利になることはしなかったんじゃないのか!」
 は、は。
 三成は息を漏らすようにして嗤う。嘲笑と共に刃を退き、横薙ぎに斬りかかる。家康は刃を拳で打ち払った。
「相も変わらず白々しい綺麗事ばかりを口にする!」
 打ち払われた勢いを殺さぬまま今度は上から迫った白刃を横へ飛んで避ける。続けざまに繰り出される斬撃を跳ね返し時に受けながら、家康は苦く叫んだ。
「お前が認めてやらねば救われない!」
「裏切者を救う必要などない!」
 家康は大谷を擁護するつもりはない。だが三成の、傍らに在った男すら何ら躊躇いもせず捨てるその姿が家康をいまだに抉るのだ。
 同じ旗の下に在ったあの頃、一瞬だけ垣間見た横顔を思い出す。面に隠された奥の奥、あの眼の端に滲んでいたものは何だったのか。
「最後にお前の名を呼んだ!残していくのかと嘆いたんだ……!」
「……黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ!
 もういいもう飽いた何も言うな黙れ黙れ貴様の偽善には吐き気がする!私の眼の前から消えろ、消えろ消えてしまえ跡形もなく消滅しろ徳川家康……!!」
 家康はその絶叫と共に振り下ろされた刃を打ち弾く。次の一瞬に再び迫る白刃を受けようと胸の前に構えた腕を、視界の外から迫った三成の脚が蹴りあげた。防御の腕が跳ねあげられて一瞬晒された胴を、即座に三成の振るう刃が襲う。胴を横薙ぎに一閃され、咄嗟に帷子で受けたものの家康は体勢を崩した。それでも踏みとどまろうとした動きの僅かな隙を抉るように首筋を強く打たれ、家康は地に倒れ込んだ。眼を見開き、跳ね起きようとした瞬間に鋭い蹴りが叩き込まれる。
「ぐ……っ」
 三成は脚で家康の胴を地に縫いつけ、さらに爪先を捩じりこんだ。
 家康は息を詰まらせながら自らの胴を踏みつける脚を打ち払おうとして、三成が閃かせた鞘に腕を弾かれた。そのまま鞘は右腕を貫くように押さえつける。
 死ぬものか。ワシは、ワシを信じてくれた皆のために死ぬわけにはいかない!腕の一本を犠牲にしようが終わらせはしないと、家康は降ってくる一撃を受けるためにあえて押さえ込まれたと見せかけ片腕を構えた。
 三成は無様に地に張り付けた罪人の苦しげな顔を見下し、唇の端から綻ぶような歓喜の笑みを零した。弧を描くようにして振りかぶった刃を天に掲げ、ようやく辿り着いたこの場所で、ただひとりに許しを請う。

 私にこの者を断罪する許可を!
 ………さ、ま。

 だが三成の意志に反して、唇はその御名を音にしなかった。
 

 何が、起きたのか。
 幾度となく繰り返してきた神の名を唐突に見失い、色を失った三成は答えを求めて周囲に視線を彷徨わせる。その眼にちらと光るものがよぎった。
 崩れた砂礫の合間に埋もれた、ひび割れた数珠が眼に映る。
 三成は切って捨てたはずのそれを無意識に探した。
 それを操る指は――唯一傍にあることを許した導き手は、どこに。


作品名:立ち竦む恩寵 作家名:karo