君に届け!
3.
本日22回目と、トムは後輩の溜め息の数を数えて自分もまた息を吐いた。
ありがたいことに、機嫌が悪い訳ではない。が、ボーっとしていると言うか落ち込んでいると言うか、仕事以外のところでなにかしら他愛のないミスをやらかしているのが心配と言えば心配だった。
…何がといって、自分の身が。
ここ数日、正確にはかれこれ2週間ばかり、静雄はずっとこの調子でどこかぼんやりしている。ぼんやりして、周囲に気が向かなくて、いろんなものを破壊している。
壁にぶつかって壁を壊したり、赤信号なのにそのまま渡って車を跳ねたり、逆ギレした債権者にナイフで刺されても気付かなかったり、ぼんやりと言えば聞こえはいいが、要するに心ここにあらずといった状態だ。うっかりぶつかられて跳ねられでもしたら、車よりヤワい自分は、当然怪我をするだろう。
債権者ががなり立てても怒らないし、罵声を投げつけられてもキレない。驚いたことに2日前、大通りで『ノミ蟲』こと新宿の情報屋を見つけても、追いかけようとはしなかった。これはかなり重症だ。
当然、ボディーガードとしては全く役は立たない。とはいえ、そんな静雄の状態に気付かれなければ立ってそこにいるだけで充分威嚇にはなるので、今のところなんとかなってはいる。が、ある意味時間の問題だろう。
なにに悩んでいるのかはわからないが、静雄が悩めることなどたかが知れている。そこに触れた方がいいのかそっとしておいた方がいいのか、主に自分の身の安全においてどちらがいいのか決めかねていたのだが、さすがにこのまま放置しておいても悪化するばかりだろう。
「静雄ー、お前さんよぉ」
「あ、…はい。すんません」
「いやいや、仕事のことじゃなくてだな? つまり、アレだ」
「はい?」
「だから、だな? …平たく言やぁフラれちまったのか、ってことだ」
「………へ?」
静雄が目を丸くするのに、思わずおや、と首を傾げた。
毎週末のように静雄の家に泊まっている高校生がいて、『オトモダチ』と呼ぶには首を傾げたくなるような交友関係が築かれていることを、トムは知っている。知っているから心配になって、『青少年保護条例』について噛み砕いたわかりやすい説明を延々と垂れたのは、一度や二度ではなかった。
当事者同士は本当に『友情』なのだと信じて疑わないようだが、端から見れば馬鹿ップルもかくやというイチャつきぶりで、彼の友人も相当心配していたようだ。
人前ではしないとはいえ、堂々と首に噛み跡を着けているのだ。さすがに大人として上司として見逃す訳にもいかないのだが、静雄も、どうやら相手の彼も、そうとう恋愛感情においてにぶい性質らしく一向に取り合わない。
そうでなければトムももっと具体的に厳しく注意をしただろうが、自覚のない人間になにを言っても無駄だ。それとなく促しても、「あいつはいい友人なんっすよ」と目をキラキラさせて言われてしまえば、どうしようもない。
基本的には直情型の静雄のことだ。自覚することイコール相手を襲うことにならなきゃいいと、常々心配していたのだが、―――あるいは気付くや否や告白してフラれたのかと危惧していたのだが、どうやら事情が違うらしい。
「どっちかってーと、…俺がフッちまったことになるんすかね…」
「はぁ!?」
どう見ても、誰が見ても両想いにしか見えなかった二人が、なにをどうしてそうなったのか。どこで食い違ったのか、あるいは、静雄のことだから一人で空回って思考がすっ飛んでったか、と眉を顰めた。恐らくは後者だろう。
ちらりと時計を見ると、午後8時を回ったところだった。本日最後の回収予定者が姿を消していて、事務所からの指示待ちだったのだが、この時間なら今日の仕事はもうないだろう。
部屋の中が片付いていたから、恐らく事前に逃げ出したのなら短時間にその足取りを追うのは難しい。
「よし、今日はもう上がるか。―――つーわけで、メシ食いに行こう、露西亜寿司」
「いや、今日は、」
「行こう、な?」
「……」
珍しく押せば、静雄は困ったように押し黙る。無言のままうなだれている背を押すようにして店の暖簾をくぐると、3連休の真ん中とだというのに、店内には客が2組いるだけだった。夕食にはやや遅い時間だったのが、幸いしたのだろう。
席へ向かう途中、カウンター内の大将ににぎりのセットを2人前、それからビール2本と声をかける。それだけで込み入った話なんだと理解してくれたらしく、サイモンはいちばん奥の座敷席に案内すると、いつもは騒がしいこの男がお茶を置いてさっさと下がってしまった。
おしぼりで手を拭いていると、途方に暮れた犬のような顔で静雄は机をにらんでいる。
しおらしい顔をしていると見た目は愛玩犬に見えなくもないのだから、顔がいいって得だよな、と思ったが、中身は凶犬、いや、猛獣だ。ひとつ扱いを間違えれば、噛み殺される恐れもある。
こういう時は急かしたり促したりしない方がいいと、トムは経験上知っていた。だからなにも言わずただゆっくりと煙草を燻らせていると、サイモンが握りの乗った皿を持ってきた。ビールを2つのグラスに注ぎ、いつもより抑え目のテンションで『ユックリスルネ』とだけ言うと、さっさと去っていく。
トムが自分のグラスを傾けていると、おずおずと言った様子で静雄が口を開いた。
「俺って、あいつのことが好きなんすかね?」
「……………は?」
そうしてやっと紡ぎ出された言葉は、トムの予想をあらゆる意味で超えていた。聞き間違いかと首を振り目の前の顔を盗み見たが、聞き返すような真似はしない。