これでおしまい
ガイの視力が落ちていると気が付いたのは、彼の成人式から1年経った頃。
その成人式の日にタタル渓谷へと赴むき、そこで奇跡的に生還した彼と会った。でも彼は、ルークの記憶を持つアッシュであり、“ルーク”ではなかった。
それを嘆くかのような突然の、だけど目に見えないゆっくりとした、ガイの精神崩壊がその頃から始まっていた。
最初は本人さえも、目が霞んでいるのは疲れの所為だと思っていたらしく、さほど問題視することなく貴族院に顔を出し、ピオニーの我がままによるブウサギたちの世話、音機関に目を輝かし、日常を繰り返していた。そう、誰も気づかなかった。気づけなかったのだ。彼に再び落ちる影に。絶望に、喪失に。そうして彼は少しずつ病んでいった。
その崩壊を知る、半年前。
なにかがおかしい。ジェイドは唐突にそう思った。
同じ国内にいるのだからそれなりに顔を合わすことがあるのだけど、近頃、ガイの焦点が合わなくなったと感じた。それなりに探りをいれるように話かけたりしてみるけれど、まったく何かを隠しているようには見えなかったのだ。嘘をつくことはどちらかというと上手いガイではあるけれど、嘘であるようにも思えなかった。
なにかが、おかしい。でも、一体なにが。
偶々鉢合わせるような偶然を装って顔を合わせる回数を自ら増やしてみたりもした。
でもジェイドも暇ではないので、わざわざ仕事無理矢理切り上げたり、後回しにしたりと、普段やらないようなことをしていると、ピオニーにとても気持ち悪がられた。なにか良くないことが起こる気がする、と心底驚いたような表情を浮かべるピオニーにジェイドは、私もそうであることを似合わないですが祈ってますよ、といつも通りに冷たくあしらって答えた。
それに何を感じたのか、ピオニーが表情に影を落して、苦しそうに笑い、頼むな、と一言呟いた。
数日後、最近あんなに好きだったはずの音機関にまったく手をつけなくなった、と仕事のついでに赴いたガルディオス邸でペールから聞いた。
主であるガイは外出中のことで、ジェイドは驚きというより、焦りの方が強くおもっていることを自分で戸惑いながら、なにかあったんでしょうか、と核心をはぐらかすように言うとペールは表情を曇らせて苦しそうに頭を振り、呟いた。
「ガイラルディア様の救いは、彼だったのです」
ジェイドには、それだけでじゅうぶんの言葉だと、思えた。
そのまま数ヶ月が過ぎ、ガイが日常生活にさえ支障をきたしかけた頃。
ジェイドは、彼が言い出すのを待っていた。
でもそれはほんの少しの希望的観測であって、過去の復讐のことだってきっと、カースロットがなければ一生彼に隠していたのだろう、と今でも思うくらいなのだ。
彼は――――ガイは。
恐ろしいほどに自分を殺すのがうまい。嘘もうまいし、演技力もある。そのほとんどはファブレ公爵邸で手に入れた処世術であるのだろう。
だけどもし、それが彼の意思ならば。
そして我慢と様子見の期間は過ぎ、直接ガルディオス邸に赴いた昼ごろに、ジェイドは、彼のすべてがどれほど危ういものなのかを、知った。
そしてそれを、自ら選んだことも。
「ジェイド?」
白いベッドに上半身を起こしたまま、扉のほうへ投げられた視線はやはり虚ろで、焦点が合っていなかった。もう色でさえ曖昧であろうその視界に映すものはなんなのか。ジェイドは思考しないように努める。
「おや、よく私だと分かりましたね」
「ははっ、そうだなあ。ジェイドは気配を消そうとするだろ。だから逆に分かるようになったんだよ」
ガイの笑う声は、明るい。それでも少しずつ弱ってきている所為か、心なしか表情に変化が少なくなってきたようにジェイドは思った。すくなくとも、ガイはジェイドより表情のバリエーションは多いはずだったのに。
ジェイドはガイがいるベッドへと近づいて、微風で揺れる金髪へ視線を移した。
その部屋の開け放たれた窓の向こうを見ているガイは、外を見ているのか、どこを見ているのか分からない。
どちらも喋らずに、沈黙をただ守る。そうして鳥のさえずりや、子どもの笑い声、街の遠い喧騒、水の流れる音を耳にしながら、ガイはふと笑った。穏やかに、口元に笑みを浮かべて、窓の外の景色を見えるはずもないのにただ見つめながら。
そしてゆっくりと、口を開いた。
「今なら、分かる気がするんだ」
「……。なにをです」
その景色は、ひどく不釣合いで奇妙だとジェイドは思った。
ガイの精神状況は確かに崩壊しているというのに、こんなにもすべてが明るく鮮やかな色をし、穏やかな空気の中で世界は廻る。
平和な時代、人々は喜び生きて、歌を歌う。なんて不釣合いな、景色。
「ルークが、俺たちの前では泣かなかった理由、だよ」
そうしてこんなにも、自分を蝕み続けているというのに、穏やかに微笑む、彼さえも。