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『交錯』

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 近い。少しの動作で手が触れそうになれば引き、その動きで触れた指先が熱く、甘く痺れたまらなくなる。今更、照れる間柄でもなく第一赤面した俺など情けないだけだ。自分だけ馬鹿の様だと思いつつ雷はどうなのだろうと横顔を探ろうとするが、これだけの近さではいくら刃でも無理なことだった。案の定目と目が合い、嬉し気な表情で応じられる。今更だが刃は胸の痛みを覚えた。
 全てこの世界は作り物。彼も自らも作り者。
 だがここにいたい。本当は。ここを守らなければならない。だから己はここに留まってはならない。自らの刃を持ち守るべき世界を守れ、戦いの場に居るべき己にはこの場は遠過ぎる。
 そんな世界の主が不意に小さく呟いた。
「……少しで良い。忘れても良いです、花の名前なんか。でも……アナタに。アナタには。いつも酷な事ばかり思い考えているでしょうから。名でなく葉の緑、花の薄色……。ねえ、兄さん」
「……気は紛れましたか?駄目だったでしょうか。」
気が紛れるどころか、ここに来て己はいつもと違うことだけ考えている。いつもと真逆の思考に内面を揺さぶられてばかりいる。こがねの日の温もりに慣れぬ様、心地良いという思いを抑え、緑色づく葉の触れ合う音の涼やかさ柔らかさに馴染まぬ様、留まりたいという心を封じ花−…花の甘さ。それに溺れぬ様、むっとした顔で平静を繕い装い、お前を盗み見てばかりいる。
 温もり柔らかさ暖かさ、お前の思いと心、俺が求めた身体的な関わり。お前が無償で向けてくれる物全て、未だに己の中で都合よく消化し受け入れることに戸惑い、慣れることに恐れを抱くのはそれらが自分がいずれ行き着く先と相反し、 自らが得てはいけない、望んではならないものを具体化した存在だからだろう。
 己には遠い遠い、そう思わねばならないと思い続けるこの場所の物共の正体を言葉にすると、確かに“落ち着き”と言うのだろう。
だがそれを己が落ち着きと素直に思えるか、認められるか。
(……緑をただ手放しで好きだと言い切れるか。)
俺はそれが時折恐いと、刃はそう思う。
馬鹿だと思うだろう。頑是ない子供以下だろう。心地良さを受け入れたら刃を振るいたくなくなる。慣れたら留まり続けたいと思ってしまう。彼−…守らねばならぬ者、が俺に寄せる手を取ったのなら自らの向かうべき場所へ行く気持ちが止まってしまう。だからこの場所に居ると沸々と湧き出てくる己のそれらの内面の惰弱さへ苛立ちも抱いてしまう。その思いもある。

「それとも−…落ち着きますか?」
客観的に、あるいは己以外の万人は落ち着きを得られる場所だろう。刃は素直に応じた。
「−…まあ、そうだろうな。」
 その言葉を聞いた雷は嬉しそうな顔をする。恐らく……いや絶対にこの弟の表情は兄弟中一番自分が多く知るのだろう。 現実的な性格なのに己のことには子供以上の無防備さで手放しに喜ぶ青年、一見冷たささえ感じるのに己のことになると隙だらけになる美貌の男。
(いつも俺はその隙に付け込み、俺の好きな様に……大丈夫だからお前はここにいろと言い包め、稀に兄のわがままを通したり、あるいは−…そうだ。つまりその。閨でたわむれている最中、特にこの時は俺の望むままになるからと無理に強いて辛い思いをさせる。だが結局お前は俺の思う通りになって……)
「嬉しいか?」
「嬉しいです。」
即答。その裏表のなさに心痛み、その視線の真直ぐさに胸を打たれる。
その雷の姿を見、ここに来て以来抱き続ける己の内のこの悶々とした思いを彼に打ち明けたらどうか、隠し続ける事が却ってこの者に対し悪いのではないかという思いに囚われ、さり気なく刃は口を開いた。
「だが……俺はここに居てはいけない、そう思う。」
「……」
一瞬目を見開いた雷はそのまま、変わらぬ表情で刃を見る。
「お前はここにいていいんだ。」
「……何故」
「お前はともかく俺が花の中に立ってるのを想像してみろ。」
「−…ごまかさないで下さいね。」
刃は溜め息を付く。己を問い質す雷には少しのはぐらかしも通じない。
『俺はここに居て良い者ではない』
刃の目だけをじっと見る雷と声が重なった。
「……」
鼻白む刃に雷は笑いもせずに話す。
「……言うと思いました。誰がそんなこと決めたんですか。そんなこと誰も言ってませんよ。」
(それは俺が決めた。これだけはいくらお前でも譲ってはいけない。……兄弟達を守るため、お前をこの場に置いておきたいから。だからお前が今こうして掛けてくれた言葉、差し出した手を俺は−…払わねば。)
自らを戒めるため、心地良いこの世界と己を切り離すために、弟の好意を振り払う様に刃はきつく言い放った。
「ここに俺がいてどうすると言うのか。戦士が緑や花の中にいても何も得る事はない。むしろ……」
「……」
「緑の色の中は俺には合わない。心が萎えていく。日の暖かさはいけないんだ。慣れてはいけない。花−…花は。」
そのまま、ちらと弟を見る。
「(ここにい続けたいと思ってしまう。それが恐い。)……いや。お前は俺がここに置いておきたい。」
「アナタの行く場所が僕の……僕達のいる場所ですよ。」
(そう僕が決めている。どうしてもこの人には……敵わない。だけどいつか必ずこの人を引き留めると。それが出来るならこの身が消えても良い。)
風が吹く。どうにも出来ぬ沈黙が続く。−…風が。全てを流し去ってしまえば良いのだがと刃は思う。血にまみれた自らの手、到底叶わぬことだが、自らが造られた意味とその宿命も。
(そうすれば俺はこの者を、雷と−…)
涼やかな、いつもの隙のない顔のまま物言わなくなった雷を再び横目で眺めながら、刃は後悔していた。
きつく言い過ぎた。戒めの心の矛先は己に向けなければならないのだが。落ち着きに慣れ、心地良さを感じていた己に嫌気と焦りを感じ強く言ってしまった。
 未だ雷は尚、じっと刃を見詰める。両の手で黄褐色の兄の手を取り、離す。やがて寂し気な表情のまま目を閉じた。
「どうした」
彼が傷付いたとは思わないが、その様に焦り刃は声を掛ける。
「兄さん……」

 この人は遠かった。
 どこに僕がいても声を掛けてくれる。
 その声はいつも、今も優しい。ただ彼自身以外の者を寄せ付けまいとする突き放した、何者にも縋ろうとしない絶望的な穏やかさなのだろうと思う。
(−…今の自分では。)
待って下さいと追いかければ足手まといになるだけで、言葉で思いを伝えたとしても大丈夫だとしか返って来ない。“優しい穏やかな声”で。
(何も……一つも大丈夫でないくせに。そしてこの人はゆっくりと駄目になっていく。
僅かでも良い。本当は全て自分が負いたいのだけれど。楽しさや嬉しさはいらない。抱え持つ重みを分けて欲しい。
(……僕ではその十分の一を背負っただけで気が変になってしまうかもしれないけれど。兄が僕に望むこんなどうし様もない緑と花の世界に置き去りにされ、大切だと優しく言われ置いておかれるより。)
 僕はこの人の側で。
−…この人と同じ世界を見て。
戦士としての宿命、自分達が造られた理由、数多の命を取って。この人の場所がそこだから。弓と矢はこがね色でなくて良い、血にまみれてしまえば良い。
作品名:『交錯』 作家名:シノ