ノッキンオンヘブンズドア
夜半から降り出した雨は日付を越えても止むことを知らない。好都合だった。空気中の湿度は音やにおいや気配を消せる。被ったフードから水滴が腰にやった手の甲に落ちる。人を待っていた。名すら知らぬ、一番隊所属の平隊士である。一度や二度、ともに市中見周りに出たろうか。畳の上に滑らされた写真の中の顔を思い浮かべたが、声の様子さえ思い出せない。
間者だ、と写真を沖田に寄越した土方は言った。勘定方にもしきりに接触してやがる、どっちかって言うと使い捨てだろう、今度の御用改め前には潰しておけ。灰皿には煙草が何本も突き刺さっていた。副長室は煙でけぶって喉が痛い。夜半、日付はとっくに越えていた。地虫がジィジィと鳴いている。蒸し暑い夜である。障子も襖もなにもかも閉め切って、この男と同じ空気を吸っているなどぞっとしないと沖田は思う。思いながら目の前の写真を摘みあげる。ぼんやりとした顔だ。鉄砲玉とはそういうものだ。身よりもないのだろう。自分と同じである。下っ端隊士に掴める情報なんぞすかしっぺぐらいでしょうや。……これでも泳がせたほうだ、俺は鼠は嫌いなんだよ。
外は月が明るいらしい。障子紙を透かせてぼんやりと明かりが届く。それが土方の凶相を浮かび上がらせて、沖田はそのほの白い頬を眺めた。目の下に薄く隈ができている。鼻から息を押しだすようにして沖田は小さく笑う。副長さんはあれやこれやとお忙しい。
……了解しやした。そう返事をしたことを、ふと思い出した。軒先から大きな雨粒が落ちてきて後頭部を叩く。地面はひどくぬかるんで、これで立ち廻りを働けば盛大に汚れるだろうなと沖田は思う。待ち人は三十分前に屯所を出たらしい。翌日が非番の夜は、沖田の前方、二百メートル先に暖簾を出している小さな居酒屋で酒をすするのが彼の日課だ。繁華街から二筋離れた通りのドン詰まりで、天候の悪さもあって人通りはないに等しい。沖田は少し目を上げる。そうすればまだ、向こうの通りの賑やかしいネオンサインがわずかに届く。フードのせいでうなじのあたりがひどく蒸す。その一方でむきだしのてのひらは雨に降られて血流が滞っている。蒸し暑い夜だというのに、そこだけがひどく冷たい。
路地に佇んでいる沖田の横を、バンが一台、通りを走ってゆく。二筋の光が雨粒を照らしてゆくのをぼんやりと眺める。視線を感じて足元を見下ろせば、雨に濡れた黒猫が一匹、沖田を見上げていた。黄色い目玉がきらりと光る。その尻尾を軽く踏みつけると、猫は小さく息を吐きだして沖田の足元から走り去った。三番目。パシャパシャと水溜りを蹴る音。時間的にもころあいである。すれ違いざま、目の先に焼き付けた横顔は写真のそれと合致した。音をさせず彼の背後を目指す。右手で柄を握る。ゆらゆらと揺れる唐傘が振り向くより早く、逆袈裟に斬り上げる。あれ?と呟く男の声がした。返し手でもう一筋。顔に降りかかる水が雨なのかこの男の血なのか沖田には判らない。膝が崩れる。傘が転がる。うつぶせに倒れたのを見下ろして、血糊が水の浮いた地面に広がってゆくのを見つめる。心臓の裏に刃をたてる。ぐう、と男が唸った。無様に開いた口元から血が溢れて、彼の顔半分を汚した。血を払う。鞘に収める。敵と内通せし者、これを罰するべし。平坦な声でそう言って寄越し、踵を返した。表向きは真撰組隊士である。明日の夕刊の片隅には、攘夷志士の辻斬りかとでも小さく見出しが出るのだろう。それとも土方の寄越した監察方が死体を始末するのだろうか。沖田はそういうことには興味がない。ただ土方は、積極的に沖田にこういう仕事をやらせようとする。……雨は少し、ひどくなったようである。沖田はフードを払った。濡れた手で熱のこもった前髪をかきあげる。むきだしになった額に雨粒が落ちて、鼻筋を通りくちびるの端を過ぎ、顎へ伝って地面へと滴った。早いところ帰ろう、と思う。
そうして、屯所までぼんやりと帰路を辿った。特に雨粒を避けることをしないので、全身がびしょぬれだ。灯りの少ない道を選んだので自分がどんな格好でいるか判らない。戻ったら、さっさと着替えて寝床に潜り込もうとそう考えている。そのくせ、頭の後ろのあたりにじんじんと熱い血が集まって沖田のからだを休ませようとしない。大きく口を開けて呼吸をすると、雨が入り込んで舌を濡らした。肺を膨らませる空気は熱波そのものだ。血流はゴウゴウと音をたてて全身を巡る。水溜りはあっても灯りが少ないためにそこに映った己の顔ははっきりと見えぬ。ぼんやりと影が映り込むのみである。だがどういう顔をしているか、沖田はもう知っている。みっともない顔をしている。果たして今このとき、俺はひとのこだろうかとそう思う。
……馬鹿総悟、風邪引くぞ。水溜りに落ちていた水紋が、いっとき遮られた。うなじに落ちていた雨粒が止まる。……アンタこそ、こんな夜中になにごとですかぃ、……ああ、すまいるの帰りか。ぼそぼそとそう呟いて顔を上げると、ぼんやりと近藤の顔がそこに浮かぶ。提灯の灯りにあたたかく照らされた頬はいい色をしている。ゴウゴウという血の流れる音がする。近藤のてのひらが伸びてきて、沖田の、雨に濡れた額や頬を拭ってゆく。目を閉じる。
帰るか、と近藤は言った。言葉もなく頷いて、沖田は踵を返した近藤の背に続く。俺の額や頬は、あの男の血に汚れてはいなかったろうかと、そればかりが気になった。そうしているうちにゴウゴウという音は遠ざかって雨音ばかりが耳の中に渦巻いている。
作品名:ノッキンオンヘブンズドア 作家名:いしかわ