ノッキンオンヘブンズドア
ざあっとにわかに雨の音が強くなった。砂浜を踏みしめる革靴に雨粒が跳ね返る。砂とともに黒く磨きたてられたそれを汚す。沖田は足下を見つめていた目を上げた。これ以上雨が強くなるようであるなら、もう戻ったほうがいいと思われた。
しかし視線を上げたそこに近藤の姿はない。はっとしてあたりを見渡すが、激しくなった雨のカーテンに遮られてなにもかもがぼんやりとしている。道沿いに立つ街灯のみが確かである。近藤さん、と沖田は少し大きな声で呼びかけた。返事はなく、雨垂れの音が沖田の耳を叩くのみである。
ざあっと、雨の音をさせて血が足下に落ちてゆく。夜闇に慣れた目でも、近藤のあの臙脂の傘はとらえられない。砂に埋もれた足を一歩踏み出した。やけにからだが重い。舌を打ってもう一度足下を見下ろすと、すっかり膝下まで水に浸かってしまっている。ざぶざぶと流れが押し寄せて、沖田のからだを沖に持っていこうとする。どういうことだ、と冷えた腹で思う。自分は砂浜といっても、随分と波から離れた場所を歩いていたつもりであった。雨が額を打つ。髪はもうびしょぬれで、鼻の脇から口の端から雨粒が顎を伝って落ちてゆく。街灯の灯りももうとらえられない。沖田は浅い呼吸をひとつした。ひゅうと喉を通り過ぎた音は、むなしく雨に打たれて落ちた。
すでに、手に近藤が買って寄越した傘はない。代わりに持っているのはひとの血を吸いすぎた一振りである。ずしりと響く重みは鉄の塊であるからという理由のみではない。雨に打たれて萎えた筋肉はずるりとそれをとりこぼしそうになるが、はっと神経を奮い立たせて柄を握りこんだ。手が濡れているのは、雨や海のせいばかりではないらしい。何故だか今、沖田は自分が返り血で真っ赤だと知っている。額から鼻の脇を通ってくちびるの端に辿り着いた水滴は金錆の味がするし、鼻孔に広がるのは海の生臭いにおいばかりではない。今、手がずるりと滑ったのも、ねばねばとした体液によるものだろう。そう思う。
うつむかせていた顔を上げると、生温かな雨が目に入り込んだ。眇め、あたりを見渡す。街灯があった位置よりももっと高い場所に、提灯の連なる行列がある。たくさんの赤い灯りがゆらゆらと揺れた。堤防を行くのは平隊士たちに違いない。……今日は、攘夷浪士のねぐらに向け、少し大きな討ち入りがあった。
一人で斬りすぎた。右手の刀は脂にまみれてしまっていて、最後の方はほとんど斬るというより殴りつけていた。それでも充分骨を折ることはできるし、息の根を止める方法など他にもある。てのひらが濡れてすべり、柄を持つのにも一苦労であった。刀を握ったその拳で、またがった男の頬骨を砕いていると、おいおい沖田さんよぉ、やりすぎだ、もう死んでんじゃねえか、という声がする。そうかもしれねえがもうどっちでもいいじゃねえかと思うと腕が止まらないんでさぁ。そう返そうとも思ったがくちびるが糊で張り付いてしまったようで開かない。端のほうからべりべりとうわくちびるとしたくちびるをはがしていくと、触れた舌先に金錆の臭いがきつく残った。そこでようやく沖田は起き上がり、男の頭を蹴ってそこから引き上げた。受けた傷は些細なものだ。あばらの辺りに違和感と、腕を少し斬りつけられて程度。肺を膨らませるたびにひゅうひゅうと喉が鳴った。御用改めの赤い提灯と、救急車の赤いランプがあたりを照らすなか、ぞろぞろと同胞が港近くの倉庫から引き揚げてゆくのを見送る。怒号、呻き声、そういう雑多な音はからだを包む膜の向こう側からやってくる。大きく息をする。痛みはまだやってこない。己のからだの輪郭ははっきりしすぎるほどに赤く縁どられているというのに、それに伴ってくるはずの感覚はひどく遠い。いつものことである。斬りすぎた日はよくこうなる。風呂に入って布団に入り、一晩寝ればすぐ元に戻った。
隊長と呼ばれ振り向くと、ギョッとした顔の平隊士が沖田に向かって手を伸ばそうとしているところであった。血まみれの沖田の姿に怖気づいたか、そのてのひらは中途半端な位置でぶるりと震えた。なんでぃ。……車回しますんで、乗ってください。……歩いて帰るから要らねえや、それより歩けねえやつを運んでやんな。袖口で鼻の下を拭いながらそう寄越し、そこここに跳ね返る赤い光を避けながら帰途についた。
そうしてふらふらと歩きながら改めて己の惨状に笑ってしまう。面を合わせた野良猫さえ逃げ出す始末であった。屯所に近いところまで来て、せめて落とせるものだけでも落とそうと裏手の川に走っていった。先日まで降り続いていた雨のせいで、川は増水している。堤を下り、低木に刀を引っ掛けると服を着たまま川に入って顔を洗った。もうすっかり日の暮れた時分である。灯りなどろくにない。暗い水の底が見えるはずもなく、ゆらゆらとそこに血のいろの混じっていくのを沖田は手や足を振り回しながら想像した。潜って髪をかき混ぜ、ところどころひっかかっているのを乱暴にほぐす。てのひらを触ってみると、中指や人差し指に細い糸が絡み付いている。
膝の辺りに水がくるところまで難儀して歩き、平たい一枚岩に腰掛けた。水に浸った腰周りからどんどん熱が吸い取られる。立てた膝に腕をくれ、うなじを折って溜息をついた。耳の辺りを強くこすり、顔を手でぬぐう。爪の中に黒いものがびっしりとこびりついていた。これは、そう簡単に取れそうもない。
そうしてじっと己のてのひらを見つめていると、今度は総悟、という声がする。不審者かと思ったぜ、……なにしてやがる、とうとうトチ狂ったか。川岸を振り返ると、提灯を持った土方である。聞こえるように舌を打ってやると、面白いように土方の顔が歪んだ。川底に足をつき、水をかき分けて岸へと渡る。引っかけておいた刀を手にとる。……てめえ、携帯どうした。後ろからのその声に、ああ、と軽く息をついた。びしょぬれの隊服を探る。内ポケットに、川水の滴るそれを見つけた。土方の大きなため息が後方から沖田をさらう。……近藤さんが、心配してる、てめえだけ連絡つかねえからな。
靴の中に水が入っていて、一歩踏み出すたびにそれがズボズボと鳴る。沖田はくちびるを引き結んで、靴も、靴下も脱いでしまう。その横を土方がさっさと沖田を置いてけぼりにする。ぐしょぐしょの靴下をポケットに突っ込み、靴を指にひっかけて腰を上げた。もうすっかり堤防を行く赤提灯の群れはなくなってしまって、しんと夜が川面に降り積もっている。
屯所に着くと、軽い怪我人の手当てや後処理でまだそこここが明るい。庭を伝って、沖田は局長室の前まで来た。障子にぼんやりと明かりが透けている。近藤さん、と呼びかけた。無言。もう一度、もっと腹に力を入れて近藤さんと呼びかける。すると畳をバタバタと踏む音がして、障子が鳴った。こちらもまた、埃や砂や、少しばかりの血で汚れている。男前が台無しだ、と沖田は思う。近藤はすっかり眉尻を下げて、よかった、と呟いた。すいやせん、携帯、駄目にしちまって。いや、いいよ、お前だけ連絡つかねえから、俺はてっきり。
てっきり?
ぽた、と前髪から水滴が落ちて庭の土に吸い込まれていった。
作品名:ノッキンオンヘブンズドア 作家名:いしかわ