竜の子
次に目を覚ましたとき子供の姿は無かった。
少なくとも自らが知っている子供の姿ではない。いつの間にか開け放たれていた障子から射し込む月を見上げている姿に無意識に誰だと口にしていたらしい。その声にゆっくりと振り向いた顔は以前一度だけ見たあの竜の顔。これは一体どうしたことか。横になった体勢のまま動けないでいると目の前の竜が見たこともない顔で嗤う。
やっと出てくることが出来た。そう言い放った声は腹に響くような重い音をしている。本当は今回の変態で完全体へと成るはずだった。この餓鬼の抵抗がなかなかに手強くこんな刻限にしかでてこれないとは。そう忌々しそうに呟く。状況に頭が追いつかない。身体を起こしどういうことかと問い詰めればアンタには多少世話になったからなとそれは口許で嗤う。
オレはこいつら竜の一族の父の様なものだ。遥か昔アンタら人間が生まれいずるよりもっと。その時代にオレはいた。元の肉体は既に滅んだ。まあ肉体なんて古くなった皮の様なものだ。そのまま精神体となったオレは深い眠りについた。しかしなんの悪戯か生まれおちる竜の子供と精神が絡む場合がある。一緒に生まれ落ちちまうんだな。そういう子供を見分けるのは簡単で、こんな風に眼の色が違うのさ。オレの自我はこちらに留まる。そう金の眼を指す。こちらとしては無くした肉体を再び得るだけのことだがもうひとつの自我が少々厄介なのだとこの竜は言う。大体は変態の時に取り込んで喰っちまうんだがなかなかこいつは見所があるね。このオレを抑えちまった。まあ寝てるときまでは無理だったみたいだがな。からから。嫌な笑い声だ。思わず耳を塞ぎたくなる。
だがもうそれも終わりだ。終わり。なにが終わるというのだ。ごくり。小さく喉が動くも口の中は乾いて張り付いてくる。――アンタを喰ったらコイツどういう顔をするかな。見ることなんてないだろうけどさ。からから。月明かりに照らされた半面から見える笑顔。それともう半面。闇に覆われた箇所から光る眼の色が恐ろしい。金の色をしたその眼。とても綺麗だと思ったのはいつだったか。今はただ禍々しいばかり。
ぞわり。反射的にその場を飛び退いた。先ほどまで居た場所に大きく抉れた痕が付く。心の臓が高鳴る。バキバキという音と共に長く伸びた爪がその場を抉っていた。後で佐助に怒られてしまいそうだ。頭の片隅で思う。避けるなよ。そう面倒くさそうに竜は言う。アンタの肝を喰わせてくれればいいのさ。安心しろよ。一瞬だ。
そう言われて避けない者がいるだろうか。この場所に得物は無い。佐助! 鋭く叫ぶも応えは無い。無駄だよ。この空間は隔離されてる。事も無げに竜は言いこちらに近づいてくる。どすりと鈍い音を立て首元を覆う様に爪が立てられればたちまち壁に縫い止められる形となる。じゃあな。右手が上がる。またきらきらと眼が光った。瞬間竜の動きが止まった。苦しげに叫び頭をおさえる。正確には右目か。煩い。黙れ。そう空に向かい竜が吼える。何が起きた。そう考えると同時に身体が動いていた。隙を見せた竜を引き倒し馬乗りになる。頭を床にしたたか打った竜の動きが鈍る。引き寄せられる様に手がその金の眼に向かった。
鈍い音がする。ふざけんな。そう耳に届いた気がするが頭の中までは届かない。機械的に指を曲げ掴んだものを引き出した。あの子供は還ってくるだろうか。……もう駄目だろうか。無意識に手の中のものを潰す。地鳴りの様な音が響く。断末魔だったのだろう。
小さく佐助と口を動かす。空気が揺れて現れた姿にこの者の処置を促す。状況を瞬時に把握し一つ頷いた佐助の動きが止まる。視線の先に目をやれば竜の身体が薄蒼く光っていた。同時に小さく帯電する。これでは触ることが出来ない。抉った箇所は今すぐにでも手当をしないと危険だと言うのに。そう内心舌打ちをするもよくよく見てみれば怪我をした箇所に多く光が集まっている様にも見える。緩く立ち昇る蒼い光。
「竜が持つ治癒能力が働いているのかもしれない」
ぽつり佐助は言う。一口飲めば不老不死にもなれるという血のことか。そのような文献も読んだ気がする。
「ここはあの子の力を信じよう」
その言葉に頷いた。