難攻不落の男
ロイは音のない声で囁いて、そうっとエドワードの背中を撫でた後、ゆっくりと体を離した。そうして、ぽん、と頭を軽く撫でてくれる。その大きな手に半ばうっとりと目を細めると、ロイは少し笑ったようだった。
「……さて。…君も戻ってきたし、続けようか」
そして、エドワードが食堂へ行く前の話題を自然に持ってきた。
それまでの雰囲気は綺麗に払拭して。
そこから後のレポートの検証なんて、上の空もいいところだった。
初めこそ何度か声をかけて注意を促していたロイも、エドワードの集中のなさに気付いたらしく、一時間も経った頃には既に諦めていた。
「…鋼の」
ふぅ、とつかれた溜息で、はっとしたエドワードがロイを見たが、彼は困ったように苦笑していた。まるで小さな子供を宥めているような顔だった。
「…っ、…ごめん…!」
慌てて謝罪めいた言葉を口にしたけれど、口走ってからそれが、普段は気にしたことがないけれども、本来であれば上官に向けて言うような言葉ではないということに気付いた。軽くパニックに陥りそうになったエドワードに、ロイは怒っていないというような顔をして、目を細めた。
それはとても優しげに見える顔で、エドワードが好きなもののひとつだった。
口では厳しいことを言うし、あからさまに甘やかされているなんて絶対に思わないけれど(但しこれを大佐の部下達に言ったなら微妙な顔をされたことうけあいである)、それでもエドワードはわかっていた。彼が自分を大事にしてくれているということが。
その顔は、そう思わせるに充分すぎるものだったのだ。
「今日は早めに切り上げよう。なに、締切までは日がある。焦ることはないさ」
さらりと言って、ロイは立ち上がり、とんとん、とデスクの上で書類を整えた。その動きに、エドワードはきょとんとしてしまう。
「宿まで送っていこう。ついでに、食事も」
「…え…」
外はまだ明るく、夕食までにはまだ相当間があるように思えた。お茶には遅いかもしれないが、少なくとも夕食の時間ではない。ましてロイと食事など、エドワードは考えたことがなかった。
「ぼんやりした顔をしている。少し気分転換をした方がいいだろう」
「…え、…ちょっと、待って…」
エドワードは段々事態が――つまりロイがどうやら自分を気分転換にどこかへ連れ出そうとしているということが飲み込めてきて、眉をひそめた。そこまでやってもらうわけにはいかないだろう。そもそも、ロイにこうして時間を割かせていることだってどうかと思うのに。
「ほら、行くぞ。…どうかしたか?」
さっさと帰り支度を始めたロイが、怪訝そうにエドワードを覗き込む。なんだか悲鳴を上げそうになってしまったが堪えて、エドワードは言い募る。
「どうか…じゃないって! …大佐、仕事、終わってるのかよ?」
するとロイは器用に片方の眉だけを上げて見せた。
「昨日今日大人になったわけじゃないんだぞ?」
じゃあ終わってるのか、と言おうとしたエドワードを、少々意地悪い笑みを口元に刷いたロイが遮った。
「――力の抜きどころくらい心得てるさ」
あまりのいいように、エドワードはぽかんと口と目を開けて呆けてしまった。
サボタージュ宣言に呆気に取られているエドワードの手を、ロイはごく自然な動作で取ってさっさと歩き出す。少々バランスを崩してしまったエドワードを、ロイがさらにエスコートよろしく支えてくれた。
「…っ!」
頬が熱を持ったのがわかったが、どうしようもなく、エドワードは引っ張られるままに歩くしかない。ロイからは小さな笑い声が聞こえた気がしたが、見上げても顔が視界に入ってこないのでどんな顔をしているのかもわからなかった。
引っ張られるままに歩いていると、奇異な目でこちらを見る者もいたが、ロイに遠慮してか誰も何も言わない。どころか敬礼で見送る始末だ。
先ほどの食堂の女性達と一緒になったら嫌だな、とエドワードは思い、そんなことを思った自分に嫌気が差して、俯いたまま引っ張られていった。
「――鋼の」
そうして司令部の入り口を出たあたりで、だった。
ロイが唐突に立ち止まり、いやそれどころか、突然に膝を折り、下からエドワードの顔を覗き込んできた。息を飲んで顔をそらそうとしても遅い。
「…鋼の」
ロイの声は染み入るように低く深く、そしてその顔は真摯だった。黒い目が瞬きもせずにじっとエドワードを見つめていて、心の裏側まで見透かされてしまいそうなその瞳にエドワードは悲鳴を上げそうになった。
とても深い瞳は不思議と澄んでいたけれど、それは子供の無邪気さとはまるで違ったものだった。例えば石が川底で磨かれて丸くなるような、そういう過程を経て研ぎ澄まされた、無駄なものを削ぎ落とされて最後に残った毅然とした何か、そういうものを備えた透明さだった。
大佐の目ってきれいだな、とぼんやりエドワードは思う。ひそやかに、気遣うように頬に触れられても、緊張が過ぎて何も感じられなかった。
「本当に、どうした」
「……」
言葉を探すように唇を動かしているエドワードを、ロイは急かしたりしなかった。司令部の門扉から少し出て、その塀の影、死角になる場所でひそやかに尋ねる彼は、後見する小さな錬金術師の態度をひとつも咎めたりはしなかった。ただ、案じるようにじっと見つめて。
「………女の、ひとたちが」
エドワードはせめても目を伏せて、言い訳をするように口をほんの少し尖らせてぼそぼそと口にした。
「…女…?」
ロイは怪訝そうな顔で繰り返した。どうやら彼の心配とは方向性が異なったらしいことを朧げに理解しつつ、口に出してしまったエドワードは、結句をつけるべく瞬きして時間を稼いだ。
「……。大佐のこと、…褒めてた」
ぽつりと言えば、ロイが軽く目を瞠ったのがわかった。暫し沈黙が落ちるが、彼は慌てることも怒ることもなくいらえをくれる。
「…それは…、光栄だなと言うべきか…」
しかしそれが、と彼の視線は続きを促していた。当たり前だろう。だから、渋々エドワードは続きを口にした。といっても、自分でもはっきりと考えがまとまっていたわけではなかったから、言葉を選ぶのに苦労してしまったけれども。
「……。…なあ、大佐…」
「うん」
子供の癇癪と片付けず、こうしてきちんと相手をしてくれるロイはすごいと思いながら、エドワードはぽつりぽつりと続ける。
「…どうして、…オレのこと、気にしてくれるんだ…?」
「……?」
「…。オレ、今まで考えたことなかった。…あんた、…オレがひとりにならないように、…司令部で誰かに変に近づかれないように、気、遣ってくれたんだろ」
ばれてしまったか、とロイが少しだけ鼻の頭に皺を寄せる。
「女の人たちが」
ロイは困ったようにエドワードが話すのを見ている。話させてしまおうと思っているのかもしれない。
「…大佐は、あしらいはうまいけど、ほんとには相手しくれないって…」
「は?」
何の話だ、とばかりロイの眉間に皺が寄った。エドワードが咎められているわけでもないのに、その顔を見ているとなんだか無性に悲しくなり、エドワードは下を向いてしまう。
「…はがねの」