難攻不落の男
「…おかあさん?!」
「あははは、こりゃいい、あんたのおかげかしらね、キティ?大佐の坊やがアタシのことを母さんなんて言ってくれるとはねえ」
ぎょっとした様子で言い返したエドワードに当の「ミーナ母さん」が腹を抱えて笑いながらこう答えれば、今度は子供は至極まじめに、困ったような顔で返した。
「…オレ、キティって名前じゃないけど人違い…」
この返事にはロイまでもが噴出す。
「なんだよ!?」
しかしエドワードには何でそこで笑われるのかがわからない。なんだよ、もう、と拗ねたようにつま先をじっと睨みつける。
「…いや、すまない、笑ったりして」
金色のつむじがしゅんと下を向いてしまったので、幾らか慌てたようなロイの声。
「あははは、こりゃほんとにかわいい!ははあ、この子だね、坊やの秘蔵っ子ってのは?」
腰を折って機嫌を取ろうとしている男に、女将のからかうような声が飛んだ。
「マム…」
「おい、ミーナ」
困った様子で呟いたロイと、それに向かい合うミーナ、そこにカウンターの奥、厨房から声がかかった。
「大将」
ちらりと顔を出した、いかにも頑固親父といった風情の、ミーナとは正反対にがりがりに筋張った男は、無言で顎をしゃくって店の奥を示した。衝立が置かれているが、席ではないように見えるのだが…。
「あいよ」
顎をしゃくっただけで、後は何も言わず首を引っ込めてしまった店主だが、ミーナにはなんだかわかったらしい。
「大佐、すぐ席作るからさ、まっといとくれ」
「ああ、わかった」
「それから」
ミーナは、不貞腐れてはいないもののしょげているように見えるエドワードの前、いきなりしゃがみこんだ。
「…!」
「ごめんよ、可愛いお嬢ちゃん。許しておくれな。あたしゃこんなんだからさ、遠慮なくいっちまうんだよねえ」
息を飲んだエドワードの頭をかまわずぽんぽんと撫でて、ミーナは立ち上がり、衝立の方へ歩いていった。…目を見開いて固まっているエドワードになど気付かずに。
「…今は、忘れなさい」
繋いでいる手を通してでも伝わってくる痛いほどの緊張には労わるような色をのぞかせて、ただ短くロイはそう囁いた。
ミーナが手早く整えてくれた席は普段は使っていない場所のようだった。衝立はそのままに、喧騒は聞こえてくるけれども1枚隔てられたこちらのテーブルで、ロイは、大きくも小さくもない声で告げた。
「気になることもあるかもしれないが」
「…そんなこと、ねえ」
「そうかい? …ならいいがね。ここの料理は本当にうまいよ」
「……。あんた、常連さん、てやつなの」
「さあ…そこまでのことはないだろうな」
ロイは言って肩を竦めた。
「こんな早い時間に外を歩けることは、そんなに多くもないんだ」
「…ふーん…」
「私が真実常連だといえるのは…司令部の食堂くらいだろうなぁ」
嘆かわしい、とでもいわんばかりの大袈裟な溜息に、エドワードは笑ってしまった。
「こら、笑うんじゃない。私の真剣な嘆きを」
咎めながらも、ロイの顔は笑っていて、エドワードのためにそんな冗談を言ってくれているのは目に見えていた。だがどうも今日は昼くらいから調子が狂っていたから、エドワードは気付かないふりをして甘えることにする。
「はいよっ、とりあえず喉湿しだ」
と、タイミングを見計らったようにミーナがやってきた。片手にジョッキ、片手に盆を持っていて、盆には細身のグラスとわさわさとしたサラダのような皿が載っていた。
泡立つ濃金の飲料が入ったジョッキはロイの前に、細身の、赤い透き通った飲料が入ったグラスはエドワードの前に迷いなく置かれる。泡も見えるので、発泡酒かソーダ割のどちらかかもしれない。酒は、と客が言うより早く、ミーナは豪快にウィンクしながら言うのだ。
「うちで漬けた苺の酒だけど、ソーダで割ってうんと薄くしてある、こんなのうちの孫ならジュースだよ」
「…マム、お孫さんなんていたか?」
「いたとしたら、の話だよ。いるわけないだろ、ガキもこさえてないのに孫ができるかい」
彼女は豪快に腹を揺すって、少し乱暴なくらいの仕種でエドワードの金髪をかきまぜ、それから陽気に帰っていった。ぽかんとした様子のエドワードはなんとなくその背中を見送り、それから、店の梁にかけられている旗のようなものに気付いたらしい。ロイもまた、その視線を追って、先回りして説明してくれた。
「この店は海賊亭といってね。ところどころに船のものが飾ってあるんだよ」
「海賊?」
「マムが言うには、彼女と大将はその昔、若い時分は七つの海を股にかける大海賊――の船の乗組員だったそうだぞ。私は残念ながら海を見たこともないからわからないが、確かに、あの大きなガラスの浮き玉は海で使うものだな」
「…ふーん…」
「興味があるかい?」
「うん」
柱に飾られた元は色鮮やかだったと思われる旗とガラス玉を見ながら、エドワードは恐らく無意識なのだろう、素直に頷いた。ロイはジョッキを手に持ち、何気ない調子で言う。
「じゃあいつか連れて行こう」
「え?」
さすがに振り向いて瞬きしたエドワードに、ロイは何事もなかったかのようにジョッキを掲げた。
「飲まないか?」
「あ、うん…」
つられたように、エドワードは綺麗な赤色のグラスを手に取った。
運ばれてくる料理は香辛料の効いたものが多かった。エドワードには少し辛いと感じるものもあったが、味そのものは皆美味しかった。
…たとえ、途中で、うっかり唐辛子を飲み込んでしまって涙が出るほど辛かったとしても。
口を押さえて悶絶していたら、笑いをこらえながらロイが冷水をもらってきてくれた。慌ててごくごくと飲んだがまだ辛くて舌を出していたら、甘いものをつまむといいよ、とこっそり土産のショコラを一粒抜いてエドワードの口に放り込んできたものだ。
ロイと一緒に、取り立てて用事もないのにこんなに長い時間一緒にすごしたことは今まで実はなかった。だから、こんな風にさっさと先回りされるように面倒をみられて、とても驚いていた。しかもひとつも押し付けがましくないのだ。エドワードが気付いた時にはそうされている、という自然なものばかりで、ロイのそういう態度が昨日今日出来上がったものではないのだと暗に教えていた。
それはどうしてかエドワードにとって悔しいものだった。
ロイに対して悔しいのか、そうされる自分が悔しいのか、それとも今までの人生の中でロイにそうされてきた誰かに対して悔しいのか、それはわからなかったけれど。
ロイが多分手洗いだろう、ほんの少し席を立ったときだった。エドワードはもう一滴も残っていない赤色のグラスを傾けて、往生際悪く、そして多分行儀も悪く、舌を出してちろちろと舐めていた。
ロイは結局一杯しか許してくれなくて、この後はずっと冷たいお茶だった。ロイはといえば、こちらもビールはやめて、お茶だと言っていたけれどエドワードはごまかされない。お茶によく似ていたのは確かだけれど、料理があってもごまかされないくらいにそれは酒の匂いがしていた。