帝国の薔薇
「ええ。最近皇帝が代替わりして、不穏な動きを見せています。実際北の国境あたりの人間が少しずつ移動を始めています」
「実質小競り合いくらいは起こっているのか?」
「今の所大事には至っていないようですが、ある程度蓄えのある人間は南下を始めていますね。東方にも移民が増えています」
淡々とした報告に、ロイは考えるように腕を組んだ。
「…陛下には、奏上申し上げないのか」
ぽつりと、カップを両手で持ったまま口にした少女に視線が集まる。ホークアイは薄く笑みを浮かべ、「冷めてしまったでしょう。今度は私が淹れてまいりましょう」と言い、ご無礼を、とエドワードの両手からカップをそっと持ち上げた。
「…殿下」
「なんだ?」
神妙な顔をしてこちらを見ているロイに、エドワードは無意識のうちに眉根を寄せた。
「――ブリッグズの戦いは勿論知っておいでだろう、殿下」
「…陛下が最初に勝った戦だ。知ってる」
「あの頃陛下はまだ陛下になりたてで、あの軍功が陛下の今の地位の足元を固めたといってもいい」
「…だから?」
今は歴史の授業をしている場合じゃない、とばかり眉をひそめる姫に、ロイは茶化すことなく淡々と告げた。
「だが今と当時では立場が違う」
「…親征はないだろう、さすがに」
「しかし、北には因縁がある。となると、誰が大将に相応しいか?」
「…誰、って…」
エドワードは困惑に目を揺らしながら、重臣達の顔を順繰りに思い浮かべる。しかしどの将軍も若いとはいいがたく、征軍の将を勤められるかどうか…。
「――殿下。自分を忘れていないか」
「…え?」
ぱちりと瞬く少女の頬は幼くて、穢れがない。
――彼女は「戦争」を知らない。命のやり取り、そのものを知らない。
ロイは静かに黒い瞳で主を見据えながら思った。どんなに剣の腕を磨いてもそれはあくまでも訓練で、実戦ではない。刃で切りつければ人は傷つき血を流し、銃で撃てば一瞬で死に至ることもあり、…そして死んでしまえば人間は物言わぬものになり、冷たくなる。彼女の白い手はまだそんなことは知りもしないだろう。けれどももしも「北」と戦うことになったなら、いつまでもそんなことは言っていられない。女帝が自ら戦って軍門に降した国を、女帝が、自分でいけないとなった時誰に任せるのか、それはもう目の前のこの皇太子しかいない。それはどちらかといえば政治的な判断だが、間違いなくそうなるだろう。
「覚悟を決めておくがよいでしょう。…このまま皇太子であり続けるかどうか、も含めて」
「………」
無礼な、と言い返すことが出来ず、エドワードはまじまじと目の前の男を見つめるしかなかった。
ホークアイからの報告を携えて、ロイはマイルズの許へ向かった。正式な奏上ならばエドワードが行うべきだったが、彼には彼の判断があって、女帝の一の部下、懐刀と名高い男の下に向かったのである。
その間、エドワードはロイの部下であったという女性と共に、執務室でぽつりぽつりと話をしていた。
「…まあ。では、最初から寝坊で遅刻をしたのですか?どうしようもないですね」
「うん。頭にきた。舐められてるって思って」
任官初日からやらかしてくれたロイのことを報告すれば、ホークアイは呆れた顔で「なんてたるんだ男なんでしょう」と呟いた。けれどもすぐにフォローを忘れない所がさすがだった。
「まあ、有事の際には働く性質だと思いますが」
「…厳しいんだな、ホークアイ」
小気味よい女性にくすりと笑うと、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「殿下の笑ったお顔が見られてよかった」
「…?」
「殿下は憶えておいででないでしょうが…」
ホークアイは少しだけ懐かしむように目を細めて、エドワードを見つめた。臣下にしては遠慮のない視線だったが、日々ロイやその側近達にそうされていることや、使用人達にまで家族のように愛されて育ったエドワードだったから、それを不快に感じることはついぞなかった。
「あれはいつ頃でしょう。もう、随分前のようにも思うのですが、陛下が、帝位について間もない頃、地方を行幸されて。その時、東方には姫がついてらしていた」
「…東に、…ああ…!」
記憶をさらって、そういえば、とエドワードも目を瞠る。
叔母が帝位について間もない頃、確かに、頻繁に地方を行幸していた時期がある。今にして思えばそれも「政治的な判断」というものだろうが、行く先々で女帝は熱狂的に受け入れられていた。
エドワードも、毎回ではないが何回かは同行したことがあって、言われてみれば東には行った。といっても東部の中心であるイーストシティどまりだったと思うが。
「陛下御自ら兵の労をねぎらってくださり、皆が感涙しておりましたが。その時、殿下が一緒にお出ましになられて」
「…そうだったっけ?」
何となく記憶が蘇ってきていたエドワードは、落ち着かないそぶりで目を逸らした。気恥ずかしかったので。
「ええ。そして仰ってくださいました。いつもありがとう、と」
「……」
難しい言葉はちっとも出てこなくて、それでも、叔母の真似をして。何より、陛下や殿下の御為に働くのが何よりの喜び、と頭を下げた彼らに何かを言いたくて、だからその時の精一杯を言葉にした。
もう数年前のことだ。今ならきっともっと上手くいえるのに、と照れくさくなるが、それでも目の前の女性は、そんな些細なことをずっと憶えていたらしい。
「私たちは、本当に嬉しかったのです。殿下」
「…あの時、いたのか?」
「ええ。近くで見ておりました」
「…近く?」
ホークアイはうっすらと笑った。
「はい。私の祖父は東方軍の長でしたから。老齢の祖父の付き添いで、私もあの場にいたのです」
「…え? …え?!」
エドワードはぽかんとした顔をした後、驚きに目を真ん丸くした。
「あの殿下を見て、私も陛下方の御為に働きたいと思ったのです。私はもう随分育っていましたから、それから軍務につくのはなかなかに苦労しましたが、後悔はしていません」
「…なんで…」
東方軍の長官の孫娘、ともなれば、それなりの地位だ。それなりの地位の男に嫁いで、平穏に一生を終えるべき人間だろう。それが…、とエドワードは言葉を失う。
「私は多分、間違って女に生まれてしまったのではないかしら、と」
「…は?」
「もしくは、女にだって、大儀のために生きたい気持ちはあるのではないかしら、と」
にこりと笑うホークアイに、エドワードは何と言ったらいいかわからなかった。
「…白状しますと、昔から猟銃が趣味で。いい顔をされていなかったのですが、軍務についたら諸手を挙げて喜ばれるので、本当によかったと思っているのです」
そんなエドワードに悪戯っぽく笑って、ホークアイは澄ました調子で言ってのけたのだった。
エドワードが男装の麗人と話している間、ロイは、女帝の私室の脇の小さな部屋に居た。そこはマイルズのための部屋だ。
女帝の愛人とも言われる男だが、色に狂う女帝でもなければ、野心を見せる男でもない。彼は日々淡々と女帝を守り、助ける。これといった地位も後ろ盾もない男だが、帝宮になくてはならない人間だった。
「…北に動きがある、と?」
ホークアイが丁寧に記した文書を示しながら、ロイは「はい」と首肯した。