帝国の薔薇
「…なぜ、私に?」
当然の疑問を口にした、浅黒い肌をした男に、ロイは静かに言った。
「会議の場に出せば雌虎陛下が親征するというだろうし、…そうなれば、じゃじゃ馬皇太子にお鉢が回ってくるだろう、と」
「…不敬罪に問われても?」
「非公式な雑談に無粋なことを言わないでくれ、マイルズ殿」
さらりと流したロイに、マイルズも「確かに」と軽く頷いた。そして再び、書面に視線を落とす。
「…そちらはどのようにお考えか?」
慎重なマイルズの問いに、ロイは今度は思案顔で黙り込んだ。そして、間を置いてからゆっくり口を開く。
「多分そちらも同様だと思うが…時機が気になる、といった所か」
「確かに」
重々しくマイルズは頷いた。
時機、とロイが暗に示したのは、最近女帝の近辺であった動きのことだった。重臣の一人が老齢を理由に引退し、娘婿が後を引き継いだ。婿といってもその男自体がそれなりに年を重ねており、たとえばエドワードあたりから見たら老人になりかねないわけだが、未だ壮年といった所。
その男をブラッドレイといい、重臣達を徐々にまとめ始めている。そう遠くない将来に、彼が大臣や軍高官達のトップに納まる日が来るだろう。
それは、特にかまわない。ロイにとってはどうでもいいことだ。
しかし、そういう事態になった時、彼が女帝の敵に回るのか味方に回るのかでは話が大いに違う。そしてこの先、彼は女帝、ひいては皇太子であるエドワードの敵に回るのではないか、という見通しの方が強かった。
そう解釈する根拠は幾つかあるが、彼が、政治や軍事から遠い場所へ去った女帝の弟に近づいている痕跡があることと、最近誰かを屋敷に密かに招きいれたという情報が最たるものだった。
順当に行けば、女帝の次の帝位継承者である女帝の弟は昔から温厚な人柄で知られ、長じてのちは、宗教の道へ進んだ。事実上の継承権放棄である。家族を愛することで知られる彼は姪であるエドワードが次の継承者に指名された時も、心配こそすれ腹を立てることすらなかったという。そんな男だから、ブラッドレイが接触してきた所で容易に動くとは思えないが、そこはブラッドレイも老獪である。楽観できるものではなかった。
そしてもう一つ気になるのが、最近彼が屋敷に保護したといわれている人物の噂だった。数少ない情報からして、エドワードと同年代の人物であるようだが、ただの慈善で保護もないだろうし、第一慈善であれば、隠す必要もないはずだ。
「…エドワード殿下のご家族の話は?」
マイルズの探るような問いに、ロイは目を細めて逡巡した後、静かに頷いた。マイルズは「そうか」と相槌を打つ。
――エドワードが女帝に引き取られ、跡取りに指名されたのは、単に女帝自身がエドワードを気に入って、というだけで起こったことでもなかった。
エドワードの母は、女帝の腹違いの姉で、彼女は城を出て王都の中で暮らしていた。年は離れていたが仲睦まじい夫婦で、エドワードの下には年子の弟もいた。しかし、ある日突然事件は起こった。半年に一度女帝に会いに来ていた姉一家だったが(雌虎と恐れられる女帝もこの穏和な腹違いの姉とその子供達には和らいだ表情を見せていた)、その時たまたまエドワードの弟のアルフォンスが熱を出し、エドワードだけが女帝の許にやってきた。エドワードが六つの時の話だった。元気のよい姪っ子は女帝のお気に入りでもあったから、アルフォンスは仕方がないがエドワードだけでも遊びに来い、と何気なく女帝は言った。実際、そういうことは以前にもあったのだ。だが、それがエドワードと家族の運命を分けた。
翌朝血相を変えた衛兵が駆け込んできて、御姉上様が身罷られました、と女帝に告げたのである。何事、と事態を質せば、夜のうちに姉一家の家には賊が押し入り、姉は心臓を一突きにされ事切れており、帝国大学で教鞭を取っていた夫と、五つになったばかりの息子は行方不明、ということが知れた。現場には血痕が多量に残されており、なぜ夫と息子が連れ去られたのかはわからないが、恐らく無事ではないだろうと思われた。
結局その夜から、何一つも事件は解決していない。犯人もわからないし、消えた女帝の義兄と甥の行方もわからない。女帝の威信というか執念から今も捜索部隊が独自に活動を続けているが、十年近く経った今でも何もわからないままだ。
からくも難を逃れたエドワードはそのまま女帝の庇護下に入り、そのまま後継者として指名された。家族がいなくなってしまったことに当初はショックを受けていたようだったが、今ではすっかり元気にしている。少なくとも表面的には、そんなことなどなかったかのように過ごしている。
女帝がエドワードを何のかんのといいつつ可愛がるのは、そういった過去があるせいもあるのだろう。
「…まさかあのおてんば姫の弟だと?」
ブラッドレイが密かに屋敷に招き入れたという少年の噂に、ロイは眉をひそめた。だとしたら大事だ。十年前の事件にも何らかの形で関与している可能性があるではないか。そして、それを置いたとしても、傍系とはいえ帝室の血を引く人間だ。それを密かに擁そうとしているのなら、反逆の意図を見出さないでいる方が難しい。
「さすがに確証がない。…だが、殿下のあの髪と目」
「…金髪金目が?」
「私も随分小さな頃にお見かけしただけだが、殿下と同じ色をしていた。あれはどちらもお父上譲りのものだろう」
「…行方不明の?」
「ああ。トリシャ様は栗色の髪と瞳をされていたから」
金髪だけならいなくもないが、茶でも琥珀でもなく、金、という色彩の瞳は珍しい。少なくともロイが知る限りではそうだ。
だが、とはいえ、全くいないというのでもないだろう。年恰好と髪と瞳の色だけで判断することは出来なかった。ただ、気にする価値もない、わけではないだろうが。
「――北の話は後で内々に陛下にお伝えする。だが、…確かに貴殿の言う通り、殿下にはご覚悟召されなければならぬかもな…」
マイルズは色の入った眼鏡の奥で目を細めた。辺境の一部族出身の彼は少々異色の外見をしており、そのため眼鏡をし、あまり表に出ないようにしているといわれる。だがどの道女帝が何かにつけて「マイルズ」と指名するのであまり意味はないのだが。
「…まあ、大事になる前に手を打てばいいだけの話だろう。それは貴殿らに期待するとしよう」
ロイは肩をすくめて軽口で流した。
「政治的な駆け引きという奴だ。何であれ、流れる血は少ないに越したことはないからな…」
しかしその後でほろ苦く笑って口にした言葉には、何か言い知れぬ深いものが込められていた。それには、マイルズは何も言わなかった。ロイの独り言にしてしまえるだけの度量が、彼にはあったということだ。
執務室に帰ると、そこには主も元部下もいなかった。だがまあ、いなくてもどうということもない。ロイは、主の机の脇に置かれた机について、書面を書く準備を始めた。
すぐにも何か事態が急に動くということはないだろうが、先手を打っておいて悪いことはない。
「…おかしなものだ」
彼はインクを出しながら、ふっとひとりごちて笑った。