帝国の薔薇
中央に戻ることも、ましてこんな地位に就くこともないと思っていた。ましてや、まさか、女帝に連なる者を守ろうとは、露ほども。
背もたれに沈み目を閉じれば、昨日の事のように鮮やかな情景が蘇る。それはまだ、とても忘れられそうにない出来事。今よりも若い、けれども覇気は充分に備えた女帝が、サーベルで二人の人間を切り捨てている場面。実際に女だてらに即位前から軍を率いていた女帝だ、人を切り伏せる場面など珍しくはなかったはずだ。だが、ロイの視界で倒れていた二人は、兵士ではなかった。自分と同じ黒い髪をした女が身に纏っているのは豪華な夜会服で――、
「…昔の事だな」
目を開いて、ロイは平板な声で呟いた。
いずれにせよ過去に意味などない。人は前に向かうことしか出来ないのだから。そう思い切って、彼はかぶりをひとつ振ると、ペン先を走らせた。
ロイがひとり書面を書いていた頃、ではその主と元部下はどこにいたかといえば、中庭の薔薇園にいた。そして、その頃には女性がひとり増えていた。
「これは新しく入れた品種なのだよ」
淡くあたたかい色味を持つ白い薔薇を示して、女帝が言う。
「おまえに似合うだろうと思ってね」
そして振り返り、姪姫の金髪をそっと撫でる。その細めた目は慈愛のようなものをどこかに持っているようにも見えた。どうにかすると。
「ねえさま、ありがとう」
それに、エドワードははにかんで答える。
まるで本当の姉妹みたい、と跪きながらホークアイは思った。と、女帝の視線がホークアイに向けられる。
「ところで気になっていたんだが…グラマンの所の娘じゃないのか」
「…! …お見知りおきくださり、恐悦至極に存じます」
「固い挨拶はいい。おまえのことは気になっていた。立って、顔を見せてみろ」
では、と一礼した後彼女は立ち上がり、女帝の前顔を上げた。ホークアイも女性にしては背が高い方なのだが、堂々と立つ女帝はそれよりさらに背が高いようだった。青い瞳にひたと見据えられながら、ホークアイは息を飲む。その覇気は疑いようもない。
「…ふむ、なかなかの美形じゃないか。グラマンのじいさんが嘆くのもわかるな」
と、女帝は目を細めて、実に愉快そうに笑った。
「グラマンて?」
「前の東方軍の司令だよ。今はさすがに年で隠居したらしいが…後釜が小物でね。あまりにぱっとしないから、じいさんをもういっぺん引っ張り出そうかと思っているところさ。…それくらいすぐに出てこないようでは困るね? エド」
はい、と首をすくめる姪姫に、女帝は目を細めた。本気で咎めるつもりはないのだろう。
「…おまえでエドの脇を固めればよかったか。その方が見目が良かったかもしれない」
今からでもマスタングはお役御免にするか、と呟く女帝は面白そうな顔をしているが、いまひとつ本気と冗談の区別がつかない。
「え…」
と、そこで思わずといった様子でエドワードが声を上げた。目を丸く見開いている所を見ると本気にしたのだろう。そして、本気で、それに驚いて…、反論があるようだ。
「…なんだ、おまえはあれが気に入りか」
その幼い様子を笑って、女帝はからかうように言う。すると少女の白い頬が一気に真っ赤になり、眉を跳ね上げた。
「…そ、そんなじゃないです!」
「はは、照れるな照れるな、そうか、あれが気に入りか。おまえは案外面食いだったんだな」
「違いますってば!」
食って掛かればかかるだけ真実だと認めているようなものなのだが…、育ちの割に純粋な少女はそんなことにも気付かないらしい。
ホークアイは、さきほど久方ぶりに会った元上官のことを思い浮かべていた。以前彼の下で働いていた時よりも、今の方がずっと健康そうというか、真っ当なように見えたのだが、確かに四六時中こんな生き物と接していたらそうもなるだろう。
胸の中でそっと、よかったですね、と付け加えたのは、彼女がロイの過去を知っているからだった。それは恐らく目の前の女帝も。だからこそ、あの男をわざわざ姪姫の腹心に抜擢したのだろう。
「さて、小腹が減ったな。茶にでもするか」
つきあえ、と女帝に命じられ、おてんば姫と猟銃が趣味の女軍人はその後に従って歩き出した。
「…なんでこうなったんだ」
ロイは、どこかうんざりした顔で目の前を見た。ちょうどエドワードを挟んで垂直に、両端に並べた机は向かい合っており、向かい側に何食わぬ顔をして座っているのはといえば元部下だった。
「それは女帝陛下にお聞きあそばしてください」
澄ました調子で返したホークアイに、ロイは苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。どうやら彼女には弱いらしい。
「何か不満なのかよ。なんでオレに言わないんだよ」
「…姫。あのな…いや、不満ということではないが」
「姫っていうな」
「…久々に言ったな。…まあ、いや、いい」
溜息をついてロイは頭を振った。
――あれから、つまりは報告に来た後だが、なぜかホークアイは中央に留まっていた。留まるのみならず、なぜか彼女を気に入ったらしい女帝の下命で、ロイとは別に、エドワード付きの護衛になっていた。副師団長の肩書きを持つロイとは並ぶべきもない立場ではあるが、直属の護衛であるから、特別な地位ではある。そこで、エドワードの執務室内でも机がこういう配置になったというわけだった。
「私が来たからには、さぼらせませんからご安心を。殿下」
「うん、頼りにしてる、リザ」
「…。ちょっと待て、なんで名前なんだ」
「…マスタングはだめだぞ。オレはリザって呼んでいいって言われてるんだからな」
拗ねたように頬を膨らませる主に、ロイは深く溜息をついた。
「全然呼びたくないから安心しろ。そうじゃなくてだな、姫、私はいつまで経っても『なあ』『おい』『おまえ』なのにその差はなんだ?」
仮にも副官として半年以上傍にいるんだぞ、とぼやけば、エドワードは難しい顔をした後、ぼそりと口にした。
「…おまえなんか『おまえ』で充分だ」
ぷい、と逸らした頬がほんのり赤くなっていて、…しょうがないか、とロイはそれ以上からかうことをやめた。
エドワードの周りが徐々に賑やかになっていった頃、しかし、そもそもホークアイが第一報をもたらした北の情勢は厳しさを増してきていた。
そしてとうとう、その日は来た。
「エドワード・エルリック・アメストリス」
今日ばかりは厳かな空気の中、女帝は朗々と姪の名を呼んだ。
「本当なら私が行きたい所だが、そうもいかない。エドワード。しっかり働いてこい」
跪いたエドワードの両の肩に、とん、とん、と女帝が王錫の先端を置いた。魔よけのまじないだ。それから、一段と頭を下げた後で顔を上げた少女の白い手に、女帝は一振りの剣を与える。
「宝剣ティンクトゥラだ」
「…!」
それは、黄金の鞘を持つ見事な剣だった。どう見ても実戦向けではない様子だが、宝剣といえばそれも納得できる話だ。