帝国の薔薇
そしてその名は、周囲の老臣達に衝撃を与えた。宝剣ティンクトゥラは古くよりアメストリス王家、つまりは今の帝室に代々伝わってきた由緒ある物だったからだ。かつては王位の証とさえされたもので、それを与えたということは、とりもなおさずエドワードが女帝の代理であると内外に改めて示したということに他ならない。
「持っていけ」
女帝は豪快に笑って、玉座へ戻る。そして、一同を見渡し、朗々と響く声で号令を下した。
「近衛師団五千、ならびに中央軍より二万を我が皇太子エドワードに預ける。おのおの、皇太子の許によく励め!」
王錫がサーベルのように軌跡を描いて閃いた。
それが遠征の始まりだった。
北までの道のりは、割合に平穏なものだった。行軍は各地で声援と共に迎えられ、特に、「薔薇の姫」を一目見ようとする人々で沿道は溢れ返っていた。
「…オレ、遠征に出たと思ったんだけど」
宿屋で複雑な顔をした主に、ロイは小さく笑った。
「威光を示すのも必要なことだろう。気に病むことはないさ、殿下」
「…オレはまずおまえに威光を示さなくちゃいけない気がしてきた」
じとっと見上げる、最近幼さの抜けてきた顔にロイは澄ました顔で答える。
「充分威光に打たれているだろう?」
「…。もういいや」
はあ、と溜息をついてエドワードは長椅子に身を投げ出した。そうすれば慣れたもので、ロイが当然のように靴を脱がせてやる。けれどもそのまま詰襟を緩めようとして、はたと停まった。
「…マスタング?」
珍しく名前を(それでも姓だが)を呼んで不思議そうな顔をした主に、ロイは意味ありげに笑った。
「――私は靴までにしておくべきだな、もう、きっと」
「…?」
困惑したように眉根を寄せるその顔はまだまだ少女そのものではあったけれど、もはや未分化とはとてもいえず、そうやって服まで緩めてやるのが許される年でもなくなっていた。けれどエドワードにしてみれば困惑するしかない話で、ただロイをじっと見つめるしか出来ない。
「残りはホークアイに任せよう。姫、寝るならベッドにしなさい」
「…おまえは乳母か?」
「乳母ならよかったんだがな」
「…?」
意味がわからず瞬きを繰り返すエドワードはもう放っておいて、ロイは、ホークアイを呼んだ。
のどかな雰囲気すら当初はあった行軍だが、それでも、北が近づくにつれてある種の緊張は高まってきていた。
エドワード、ロイ、ホークアイ、それから数人の将校達とで持たれる軍議の場でも、次第にもたらされる情報が深刻なものになってきていた。
しかし、行軍が進むにつれ深刻なものになったのは、何も状況だけではなかった。いや、状況だけでも頭が痛いものではあったのだが、それだけではすまなかったのである。
「…マーロウ、そういうのは、やめてくれないか」
軍議が終わり三々五々人が散っていく中、少し陰になった場所で、ロイが弱りきった声で将校のひとりに話しかけていた。いかにも頑固親父、といった風情の外見をした、白髪の老人である。
「いえ。そういうわけには、まいりません」
「…だから、私には未練などないし、まして野心もない。ただ、今は、殿下をお守りするのが使命だ」
「何を仰いますか!あなた様こそ正嫡の――」
「マスタング?マーロウ?」
最近どうも様子がおかしい気がしてならない副官と、将校の一人の様子が気になって、エドワードは誰もつけずにロイを探しに来ていた。普段であればホークアイがついているのだが、どうしたことか、今は一人だった。何か適当なことを言ってまいてきたのかも知れない。
「…姫」
まいった、という顔を見せるロイとは対照的に、強張った顔でマーロウ将軍はエドワードを見た。その目は鋭く、思わずエドワードは息を飲んでしまう。言ってみればそれは、非常に敵意に似たものだった。
「失礼致します」
呆然とするエドワードにかまうことなく、老齢の将校はさっさと歩いていってしまった。困ったエドワードはロイを振り返るが、彼にしても、肩をすくめるだけだった。
「…あれ、なんだ?」
十分な間を置いてから、エドワードは眉根を寄せて問いかけた。あまりよく聞き取れなかったが、確かにマーロウ将軍は「正嫡」と言っていた気がする。正嫡とは一体どういうことなのだろう。いずれロイの素性に関わることなのだろうが…。
「なんでもない。老人の繰言というやつだ。…冷えてきたな。殿下、暖かい茶でも出そう」
「茶なんかいらない。何があったんだ、って聞いてるんだ」
一歩も引かないつもりで睨みつければ、溜息をついてロイは苦笑した。そうして、最近ではしなくなった子ども扱いの延長で、ぽふん、とエドワードの金髪をなでる。
「…そのうち。そうだな、都に帰ったら、話そう」
「…なんで今じゃないんだ」
「今は別にもっと大切なことがあるからだ。忘れたわけではないだろう?殿下」
「………」
それはそうだけど、とばかり、エドワードは唇をかみ締めた。
「御身が今考えるべきは、北の状況だ。違うか」
「…わかった」
少しだけ語気を強めたロイに、渋々エドワードは頷いた。
北の要衝、ブリッグズ山。その麓には砦が築かれ、かつて女帝もそこを拠点に北と戦った。
砦に入る頃には、ドラクマとの小競り合いは確かに増えているが、今日明日にも侵攻してくることはないらしい、ということがわかった。砦に入る前には、いや既に砦まで攻められている、という噂もあっただけに、エドワード達は皆拍子抜けしてしまった。
ただひとりロイだけは何かを考えているそぶりが見えたが、誰かに特に相談するわけでもなかったので、そのままになっていた。
砦を取り仕切るキンブリーという男は、北の地の軍人とも思えぬほど、華やいだ男だった。その隙のない歓待を受けながら、エドワードは何かがしっくり来ない感覚を覚えて仕方なかった。
本当に、ここは、攻められていないのだろうか、本当に、何事も起こっていないのだろうか、と。
だが、それを素直に口にしてしまうのは、エドワードの良くないところだった。普通に考えれば正直は美徳なのだが、こと政治の場において、それはあまり好ましくない軽挙となる。そして、このときも完全にそうだった。
「…ところで、キンブリー」
「なんでしょう、殿下」
「ここに来るまで、北の噂は色々聞いた。本当に、小競り合い程度に収まっているのか?」
エドワードの質問には非はなかっただろう。だが、怪しいと思っている相手にストレートに疑問をぶつけるのはやはり愚かなことだったかもしれない。
「…殿下」
「なんだ?」
笑みを貼り付けた男がすっと立ち上がるのを、エドワードは眉をひそめながら見ていた。
「殿下は素直な方でいらっしゃる」
「…?」
「――たとえば、私が北の手先で、この砦の中が既に敵地だったとしたらどうなさいますかな」
楽しそうに笑うキンブリーに、エドワードは眉をひそめて言い返した。
「ありえないだろう。たとえそうだったとして、こうやって我々を迎え入れてどうするっていうんだ。砦の残存兵力よりこちらの方が人数も武器も上だろう」
効率が悪い、と言い切るエドワードに、キンブリーはさらに楽しそうな様子で体を揺らした。