帝国の薔薇
「確かに、まともに戦えばそうかもしれませんが」
「…?」
「…殿下!」
キンブリーが体を折って何かの動作を取ったその瞬間、それまで黙ってエドワードの斜め後ろに控えていたロイが動いた。エドワードが何が起こったかを理解できたのは、既に起こってしまった後になった。
キンブリーは身を屈めて両手を合わせたように見えた。その後その両手を突き出して、そしてその瞬間には爆発のようなものが起こっていた。エドワードはロイに渾身の力で後ろに抱え上げられかすり傷ひとつ負わなかったが、ロイは背中にしたたか火傷を負っていた。服が焦げるにおいに呆然と目を見開いたエドワードを庇いながら、ロイが厳しい声を出す。
「殿下を人質に誰と交渉する気だ」
「おや、騎士殿の忠節にはまったく頭が下がりますな…単なるお人よしかもしれないが」
慇懃無礼な態度で返すキンブリーに、ロイは特に揺らぐこともなかった。
「おまえは本当に『北』とつながっているのか?中央の誰かではなく…?」
おや、と目を見開くキンブリーに、ロイは酷薄に笑った。
「なかなかお目が高い。だが私は北の手先ですよ。アメストリスの生まれではありますがね」
「なんで!」
ロイに庇われた場所から、思わずエドワードは声を上げた。どうして自国の民が、と信じられない思いだった。するとキンブリーは哀れむような目を少女に向けた。
「心根のお美しい殿下。たとえアメストリスの民だとて、皆があなたの叔母上をお慕いしているわけではないのですよ」
「でも、そんな…他の国を手引きするなんて、そんな」
うろたえるような声になってしまったのは、エドワードの中にそういう考えがなかったせいだ。歴史を紐解けばそんなことはざらにあるのだが、どうしても今の自分の国に置き換えた時にそんな風には考えられなかった。
「やれやれ、困った方だ。世の中が美しいものでだけできているわけではないというのに」
「…殿下」
悔しげに唇をかみ締めるエドワードを、ロイが、驚くべき精神力で片腕に抱き寄せ、通されていた広間の大きな窓に近寄った。キンブリーにはロイの意図が見えていただろう。だが、どうせ叶うことはないだろうと高をくくっていた。
「え…」
エドワードは目を見開いてロイを見上げた。彼は片腕に主を抱いたまま、窓に体当たりして外へと転がり落ちた。耳を掠めた吹雪の音を最後に、エドワードの意識は途絶えた。
ぱちぱち、という焚き火の音で、エドワードは目を開けた。しばらくぼんやりしていたが、はっとして身を起こせば、どこかをぶつけたのか体の節々が痛かった。しかし大きな怪我はないらしく、どれも打ち身程度ではあるようだったが。
「…ここ…」
そこは見る限り洞窟のような場所だった。あたりには誰もいないが、焚き火があるということは、人がいるのだろう。
「…マスタング!」
もう少し考えてみて、ロイのことに思い至る。そうだ、自分は副官に抱えられて窓から落ちたのだ、と。
その前のことも合わせて思い出す。ロイは火傷を負っていたはずだ。目の前が真っ暗になるような気持ちがして、エドワードは慌てて立ち上がる。
「マスタング!マスタング!」
慌てて洞窟を飛び出そうとして、入り口から入ってきた誰かに抱きとめられてつんのめった。
「元気で何よりだ、姫」
「…マスタング…」
薪だかなんだかを背負ってきた男を、抱きついた格好のまま、エドワードはまじまじと見つめた。
「どうした?見とれるほどいい男か」
「…おまえ、火傷…」
軽口には反応せず、気になって仕方なかったことを口にすれば、ああ、と彼は頷いた。
「主に焦げたのは服だ。そんなにたいしたことはない」
「…本当に?」
「嘘をついてどうする。ほら、そんなことより中に。外は吹雪だ」
「うん…」
エドワードの背中を押すようにして、ロイは中へと歩いていく。主が前を向いた瞬間、彼は背中の痛みに顔をしかめたが、気づかせるわけには行かない。それに、負傷しているからといって、投げ出せることでもなかった。今この場所に自分は主と二人きりで、ロイにはこの皇太子を守る義務があった。何より、自分がそうしたいと思っていた。
「姫、腹は減らないか」
「…減った。でも、食べるものなんて…」
ないだろう、と言いかけたエドワードに、ロイはチーズのようなものを差し出してきた。
「持っていて役に立った。とにかく今は動けないからな…吹雪が止むまでここで足止めだ。そんなものでも腹の足しにはなる」
「…おまえの分は?」
チーズを握り締めたまま、エドワードは眉をひそめた。
「食べたよ」
「嘘だ」
「嘘では…」
すぐにも否定した少女が、チーズを半分に割り出したのを、ロイは瞬きして見守る。
「そんなの、うれしくない」
「……」
「おまえのなんだから。…オレももらうけど、半分にすればいいんだ」
半分に割った片方をロイの片手に押し込めて、エドワードはそっぽを向いた。ロイはしばしチーズとエドワードを見比べて、それから、ほんの少し目を細めて笑った。
「…そうか。ありがとう」
「違うだろ!ありがとうはオレが…」
「でも、ありがとう。殿下」
「……」
言った後頭をなでられて、エドワードは複雑だったが、それ以上は口にしなかった。
チーズを齧って、それから胡桃(も携帯していたらしい)を齧りながら、エドワードはロイから状況を聞いていた。
「ブリッグズの砦は本当に北には陥とされていないかもしれない」
「…なんで?」
「そもそも、北と繋がっている人間は誰か、という話なんだが」
「…目星がついてるのか?」
「大体ね。中央の誰かだろう。キンブリーはその手先に過ぎないだろう」
「…なんでそんなのわかるんだ」
「そうでなければ話がまとまらないからな。タイミングが揃いすぎなんだ」
ロイは溜息をついて、焚き火を一度かき回した。火花が散って、エドワードは瞬きをする。
「…あの、変な、魔法みたいなやつ」
「うん?」
火花を見つめながらぽつりと口を開いたエドワードを、ロイが怪訝そうに見やる。
「あの、キンブリーとかいう男の、変な…」
「ああ…」
確かに両手を合わせただけのように見えたのに、あの後奇妙な爆発が起こった。手品にしては奇妙である。
「…オレ、あれ、知ってる気がする」
「…なに?」
膝を抱えてエドワードは弱りきった声を出す。反対に、ロイは眉根を寄せて主に近づいた。
「すごく昔のことだからあんまりよく憶えてないけど…父さんが、きれいだろうって、…両手をあわせて、火花が…散って…」
俯いてしまう小さな頭を、ロイは息を飲んで見守るしかできなかった。なんということだろうと思った。もしかしたら、十年前の、エドワードの母親が殺され、父親と弟が行方不明になった事件にはそういった事情が絡んでいるのかもしれないと。それが今日目の前に現われたあの男の奇妙な技に繋がるのかもしれないと。
だとしたらこれは大きな問題だった。
「…それは、陛下や他の人間には…?」
尋ねれば少女は首を振った。
「だって、秘密だって言ったから。それに、…関係あるなんて思わなかったし」
「…今日、キンブリーを見て思い出した?」